●心の中の森を行く●

生きた証を残したい。私が言葉を忘れる前に

親が子供に遺すべきは「生き様」という記憶で十分だ

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我が家には、とあるドキュメンタリー番組を録音したカセットテープと写真の束が残っている。当時は一般家庭にビデオデッキなどはなく、番組を保存するためには、カセットテープで音声を録音し、カメラでテレビ画面の映像を撮影するしかなかったのだ。

 

障害者となった夫を支える妻、障害者となった父を見つめる子供たち。そんな家族の物語。テープを再生して聞こえてくるのは、私の父の声、母の声、そして8歳の時の私の声だ。

 

30分番組が映し出したものは、父の生涯のごくごくわずかな断片にすぎない。半身不随の障害者として人生の3分の2を生きることになってしまった男には、何時間かけても語り尽くせない想いが心の奥に堆積していたはずだ。

 

名前も残さず金も残さず。ほとんどの人間がそうやって死んでいくものだ。母はもう死んでいる。母の親兄弟も父の親兄弟も。だから私と弟が死んでしまったら父の暮らしぶりを知る人間は一人もいなくなる。病院のカルテだって保存期間は5年。だから、あれだけ通い続けた病院にすら父の名前はもう残っていない。

 

昨日、何故私が独りで海外に出たいと思うようになったのかを書いているうちに、父を通して見続けていた世間の影響がいかに大きかったかを改めて感じた。だから具体的な旅行記を綴りだす前に、もう少し父のことを書き残しておきたいと思う。

 

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「健康優良児表彰を記念して」と裏書きされた写真が残っている。表面に写っていたのは赤ん坊の頃の父だ。皮肉なものだ。その20年数年後に最初の癲癇発作を起こし、脳血管奇形が発見され、手術で除去したものの半身不随の障害が残る。彼の人生の3分の2は障害者としての人生だ。全然健康優良じゃない。

 

番組のナレーションによると、私が生まれたのは最初の発作から3年後だったらしい。その発作の原因が先天性の脳血管奇形によるもので、いずれ大出血を起こして命を落とす可能性が高いことが分かったのは、母がお産の為に故郷に帰る直前だったと聞く。子供が無事に産まれたとしても、その後の生活の見通しは全く不明。よくぞ気丈に私を産んでくれたものだと今も感謝している。

 

その後も父はしばしば癲癇発作を起こしていたようだ。親戚も母も昔のことはあまり語らなかったけれど、「あなたのそばでお父さんが硬直発作を起こした時、赤ん坊だったあなたはギャン泣きしてたのよ」ということは教えてもらった。病気に関して私自身が覚えているのは、毎食後に大量に薬を飲んでいた父の姿だ。「抗痙攣剤」と呼んでいた。要するに癲癇薬のことだ。

 

しかし発作を起こさない時の父は至って健康で快活だった。アグレッシブにバリバリと仕事をするのが好きだったので、職場ではいわゆる出世頭だったようだ。

 

散歩の後はよく「回らない寿司屋」(当時は回転寿司というリーズナブルな寿司屋はなかった)で、私にたらふく寿司を食べさせてくれた。「お嬢さんに次は何を握らせてもらいましょうか?」と言うや否や、私は「はまち!」とオーダーを入れて笑われていた。「この子、安いもんばっかり頼んでカッコ悪い(笑)」見栄もあったのかもしれないけれど、とりあえずそういうことができるだけのお金を父は稼いでいたということだと思う。

 

数年間の時が流れる。いよいよ手術を明日に控えた冬のとある日。父は病院の屋上の展望室に私と弟を呼んだ。

 

「お父さんの左手は明日からもう動かなくなる。左足で踏ん張ることもできなくなる。だから、お父さんの左腕にぶら下がっておきなさい。これが最後だ」

 

そう言って、ポパイのように左手を曲げて私たちの方を向いて笑った。3歳の弟には何が何だか分からなかったと思う。もう覚えてもいないんじゃなかろうか。でも当時6歳だった私の脳裏には、健常者から障害者になっていく分岐点が明確に刻み込まれている。父は笑っているけれど、これは笑えるような状況じゃない。きっと心の中で大泣きしているに違いない。だから私は泣いちゃダメだ。同じように笑って、父の中の美しい思い出として残っていなければいけない。きゃっきゃと笑ってぶらーんとぶら下がりながら、私は父の筋肉の硬さをしっかりと手のひらに沁み込ませていた。

 

父はプライドの高い人だった。別人になった己の身体を何とかしようと、入院中はもとより、退院して家にいるようになっても、兄弟に作ってもらった滑車つきのリハビリ器具などを使って、ずーっと手を動かしたり足を動かしたりしていたのを覚えている。

 

さらに時が経つ。「この職業訓練校で一番バイタリティにあふれている障害者を紹介してくれ」という連絡が放送局から来たようだ。その対象に選ばれたのが父だった。右手しか動かない人間にとって、そろばんで計算をするのはとても大変な作業だっただろう。余計な時間も掛かったはずだ。それでも3級の試験には合格できた。そんなところもテレビ的には好印象だったようだ。

 

ところが、それだけ頑張っても就職への壁は高くそして厚かった。「満員電車にも乗れますか?」と職業安定所の職員が父に問いかける音声が残っている。「はい大丈夫です」と父は答えたが、当然そんなのは無理だ。しばらく無職の時期を経て、やっと見つかったのはパチンコ屋の景品交換所で景品を現金に換える仕事だった。小さな部屋だった。時々私も中に入って作業の手伝いをしたが、場所柄仕方がないんだろうけど、景品をがつーん!と台にぶつけて暴言を吐く客も時々いた。かつて「同期の中では一番の出世頭だよね」と言われた男にとって、これは相当堪えたはずだ。

 

詳しい理由は分からないが、その仕事は長くは続かなかった。台交換で不要になったパチンコ台を、私たち子供の為に1つ貰って帰ってきた。以来、父に仕事の話がくることはなかった。

 

ある日学校から家に帰ったら、わら半紙の上に字にならない字で書かれた置き手紙があるのに気づいた。父の利き手は左だったので、動く右手で書く文字は非常に判読し辛い。それでもはっきり読みとれた。今でもはっきり覚えている。

 

愛する妻と子供たちへ

幸薄く生まれた私には、君たちを幸せにする自信がない。今まで本当にありがとう。

 

やがて、母がパートから帰ってきた。父は障害者でも乗れるように改造した愛車に乗ってどこかに行ってしまった。まったく行き先にアテがない。

 

私は、何かあった時の為にと、留守番役として自宅待機を命じられた。どれくらい時間が経ったかよく覚えていない。父は悄然とした姿で家に戻ってきた。

 

こんなことが日常茶飯に起こっていた。今思えば、様々な減免制度の恩恵を受けて金銭的な負担は最小限になっていたのだから、父はそこまで自分を追い詰めなくてもよかったんだ。けれども「お前はみじめな障害者だ」という世間という名の分厚い霧に包まれて、自分を責めること以外の選択肢を見つけられずにいたんだと思う。

 

色んな事情を知っている近所の人達や同級生は、決して私をいじめはしなかった。障害者や低所得者が住む団地に引っ越したことが大きいのかもしれないし、私がある程度大きくなり、自分の言葉で自分のことを話せるようになったこともあるのかもしれない。

 

一度だけ、父の歩き方を真似るどこの誰だか知らない男子に出くわしたことがある。私の何が気に入らなかったのかは分からないが、これで私が泣くと思ったのかもしれない。

 

ナメてんじゃねえよ。私がこれまで見てきたものはそんな甘っちょろいもんじゃねえんだよ。でも、自分がやっていることがどれだけ人の心を傷つける行為なのかは、しっかり教えてやらんといかんなと思った。傲慢かもしれんなとは思いつつも。

 

喧嘩がよくないのは分かっていた。長々とやってたら人目につく。誤解も生む。幸い私は身体が大きかったので、小柄なそいつの肩を掴んで、平たい地面の上に寝転がせるように倒した。起き上がられると厄介なので、太ももの上に馬乗りになり、肩を押さえつけて一発だけ思いっきり顔を殴った。そしてそいつの目を見おろしながら言った。

 

「もう一回あんなことをやったら、どうなるか分かるな?障害者は一生懸命生きてるねん。笑いのネタになるために生きてるんと違うねん。分かったら『ごめんなさい』て言え」

 

先々の復讐を封じるために、きっちりとビビらしておかないといけない。けれど私は、前回の記事に書いた事情で勉強を頑張っていたおかげで、上級生の宿題のお手伝いができる学力が身についていた。「こいつを怒らせたらまずいよな」というにいちゃんも、「なあ、宿題教えてくれや」とよく私に声をかけていた。こんなことを書くのはよくないとは思うけど、その時の私の頭の中では「この界隈であのにいちゃんを怒らせたらタダでは済まない。だからこの喧嘩で私が仕返しをされる可能性はまずない」という計算があった。その男子は大泣きで走り去った。

 

やられたらやり返す。こんな手荒なことをしたのはこの一度きりだ。父は必死に人生と戦っている。笑いの種にするのは私が許さん。