●心の中の森を行く●

生きた証を残したい。私が言葉を忘れる前に

障害者による家庭内暴力の果てに残ったもの

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お気の毒な家庭と思われていたであろう我が家も、私が小学生の頃まではそれなりに平穏で居心地も悪くなかった。そんな家庭内バランスが崩れ始めたのは、私が中学生になってすぐのことだ。

 

その頃の母は正社員の仕事を得て我が家の大黒柱になっていた。詳しい事情は書かないでおくけど、この頃以降の父は精神的に非常に不安定になっていく。私から見ても「これはどう見ても理不尽な言いがかりだぞ」と思うようなことで延々と母に罵声を浴びせ、時には包丁を振り回し、1日おきに母は寝ることを許されなくなっていた。

 

母はやり返さなかった。それがよかったのか悪かったのかは分からない。しかしながら、やり返したら火に油を注ぐことは明白だったので、「絶対に割って入ってくるな。止めに入ったら危ない」と私と弟を母は諭していた。本当にそれでいいのか。このままでは母は病気になるか怪我をさせられるのではないか。止めに入りたい衝動を抑えつつも、弟と二人で彼らの声をずっと聞き続けていた。

 

ある日の夜、寝ている私を母が起こしに来た。顔が血だらけだ。

 

「危ない。逃げなさい」

 

もうこれ以上はダメだ。逃げてる場合じゃない。止めるなり警察を呼ぶなりしないと命が危ない。母の言いつけを破り、お母さんを殺したいの?と父に声を掛けた。

 

それがまずかった。それ以降、怒りの矛先は私にも向くことになった。既に私は父の身長を追い越している。それもよくなかったのかもしれない。自分より大きい娘。自分を食わせている妻。父のプライドの高さが家族を敵認定させてしまった。

 

色々あった。

 

けれど、だからこそ私は勉強で人生の一発逆転を狙わないといけない、という気持を強固にした。家庭環境が悪かったからグレた、というのはよくあるケースだ。しかしそんなことをしても何の意味もない。自分の将来を大切にしたいなら、環境のせいにして堕ちていってはいけない。私はそう思った。

 

高校に合格した時のことをよく覚えている。あんな風になってしまった父でも、私の高校合格は誇らしかったようだ。丸くて大きなケーキを買ってきた。「お誕生日おめでとう」と書くかわりに、私が合格した高校の名前が大きく書かれたケーキだった。

 

私は当惑した。なんでこんなことをするんだろう。とりあえずこのケーキをどんな気持ちで食べたらいいんだ?父は本当に私の成功を嬉しいと思っているんだろうか。また手のひらを返したように、些細な言いがかりをつけて家の中を無茶苦茶にするのではないか。

 

けれど目の前の父は本当に嬉しそうだった。その笑顔を信じよう。とりあえずあの高校に合格したことで、私は夢を一つかなえたんだし。あの時のケーキほど、口にするのに根性が必要だったケーキはない。味は完全に忘れてしまった。ただただ怖かった。

 

父はその後、ことあるごとに「うちの娘はあの高校に通っている」、大学生になった時には「うちの娘はあの大学に通っている」と、聞かれてもいないのに私が通う学校の名前を口にするようになっていた。

 

私にはそれが腹立たしかった。許せないと思った。

 

お父さん、一人称で自分を語れ。娘の学歴はあなたの学歴ではない。私はあなたの名刺じゃない。

 

今なら分かる。こんな身体だからといって馬鹿にするんじゃないぞ、その証拠にうちの娘はこんなに賢いんだ。そう相手を牽制したかったんじゃないかと。だからそれは腹を立てるべきことではなく、むしろ悲しむべきことだったんじゃないかと。

 

身体が弱い弟にではなく、元気で頑丈な私に自分の将来の夢を託したんだろう。思春期の私にはそこまで読みとおす心の余裕はなかったけれど。

 

時が経ち、私は大学生になっていた。独り旅に出て世間を別の角度から見てみたいという、高校生の頃に決めていた夢を叶えようと思った。しかしきっと反対されるだろう。また私のことをなじるだろう。

 

相当の覚悟を決めて「京都に3日、独りで行ってみたいんやけど」と切り出した。

 

ところがだ。全く顔色が変わらなかった訳ではないけれど、「そうか。行ってきたらいい」と、あっさりと承諾を得てしまった。

 

なぜだ?「若い娘が何を言ってるんだ!」とか言わんのか?どうしたんだ?

 

やっと旅に出られるな、という安堵感の中に、どうして私に旅をさせようと思ったのかという疑問がぐるぐる渦を巻いていた。

 

けれど理由は聞かないでおいた。分からないなりにも何となく想像がついたからだ。自分の意思と自由な身体でいずれは国境を超えていく娘の姿を通じて、父自身も夢を見たかったのかもしれない。穿ち過ぎだろうか。

 

その後の父は、一度だけ飛騨高山に車で一泊旅行に出掛けた。ツアーではない。同行者もいない。宿や行程を決めるところから全部独りでやった。そして「ちょっと行ってくるわ」とあっさり言って、楽しそうに車に乗って旅に出てしまった。私と同じだな、と心の中で少し笑った。よく障害者独りで泊めてくれる宿を見つけられたな、というか、障害があることを隠して予約をとったんだろうか。

 

今のようにネットがないから、宿の情報はガイドブックの小さな写真が頼りだ。段差の高さ、手摺の有無、そんな情報は普通のガイドブックに載ってたりはしない。とりあえず無事に帰宅した父の土産は湯の花。その粉末を溶かせば温泉と同じ泉質になるというやつだった。

 

父の独り旅の記念として、今も少しだけ手元に残してある。これが入ってた箱を手渡した時の誇らしげな顔、今でもはっきり覚えている。達成感だろうか。他人の手を借りずに独り旅ができた喜びだろうか。帰宅後も、自分で作成した旅程や支出を書いたノートを嬉しそうに何度も見返していた。

 

お父さん、独り旅ってええもんやろ?自分の意思で自分の行きたいところに行って、好きなことを思う存分時間を気にせずやってみるのって、おもろいやろ?また行ったらええねんお父さんも。

 

けれどそれが父の最初で最後の独り旅になってしまった。若い時から沢山の薬を飲み続け、副作用で色々と臓器をやられていた父は、その後どんどん病名が増えていき、命の炎は少しずつ小さくなり、やがてこの世からひっそりと消えていった。本当にあっけない最期だった。

 

お父さん。飛騨高山行きの独り旅、楽しかったか?偉そうに言ったらまた怒りだすかもしれんけど、楽しいことこそ、他人の予定や気分なんか気にせず、自分の心が満たされるまでマイペースでやるのが一番ええねん。だからひとりでやるのがベスト。

 

独り旅は身体が元気だからこそできる旅。だからそれは最高に贅沢な旅なんだよ。たとえそれが貧乏旅行だったとしてもね。

 

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