自分軸で物事を考えられる人になるために
自分軸を持つとなぜ幸せになれるのか
そもそも 偉そうにモノ書いてるお前は誰w?
自分軸を作るのに役立つと思われるあれこれ
ネットにつながる機会が増えてる今 気をつけたいこと
自分軸は大事。いくつになっても育て続けよう
病人は布教活動の広告塔ではない
こことば別のブログで私は自分史のような記事を書き続けている。
「そういえばあの子、今ごろ何してるんだろう」
先日、いつもと同じように、懐かしい名前の1つをパソコンに打ち込んで検索した。
出てきたのは、とある特集記事。
闘病?
その子の苗字は結構珍しい。しかも年齢が同じ。でも、記事に添えられている写真は全くの別人。いくら40年の時を経ても、ここまで顔が変わるはずがない。
嘘だろ、まさか白血病なんて嘘だろ。つか、これは別人に違いないよ。
血液が逆流するような感覚を抑え、必死に記事を追っていった。
ある日突然に高熱を出して救急病院へ。症状が収まらない。白血球の値が異常。脊髄を検査。医師から告げられたのは急性骨髄性白血病。
抗がん剤治療を受けて退院。
その2か月後に再発。骨髄移植のドナーが見つかったので移植。これで快方に向かうのかと思ったら更に状況は悪化。
移植した骨髄が全身を攻撃し始めた。「いっそ切断してくれ!」と叫びたくなる激痛。激しい嘔吐と下痢。次第にもうろうとしていく意識。遺書を書こうとしたがペンが握れない。意識はさらに低下。数か月分の記憶がない。退院できた頃には25キロ痩せていた。何とか復職したが・・
ここまで読んで私はぎゅっと目を閉じた。
名前や年齢だけじゃなく、職種や経歴まで完全一致じゃないか。
もう一度、記事に添えられている顔写真を見る。あの子のかけらを必死に見つけようとしたけど、本当に別人にしか見えない。
なんでこんなに浮腫んでしまったんだ。あの端正な顔立ちはどこへ行ったんだ?記事には「力強く笑っている」と書いてあるけど、どう見ても泣き顔にしか見えないぞ。本当に笑ってるのかあんた。心の底から本当に笑ってるのかあんた。
勇ましい言葉で飾り立て、病と闘う英雄だと持ち上げる記事はまだまだ続く。
うそつけ。祈りが足らないから病気になったんじゃない。気持ちを入れ替えて必死に祈り続けたと書いてあるけど、全然回復してないじゃないか。
痩せこけて体力のない身体で隣の市まで自転車をこいで祈りを捧げに行く。倒れそうになる自分に生きている手ごたえを感じる。止まらない汗も生きている証。
おい。こんなことをしてたら死ぬぞ。退院してすぐじゃないか。誰も止めないのか。あんた、家族はどうなってるんだ。・・へ?家族総出で祈りを強化?マジかよ?
退院から1年後、脊髄はさらに全身を攻撃。手足がほぼ動かせない状態のようだ。全身の痛みも続いている。息苦しく、口の中はびっしりと口内炎。下痢も続く。
こういうのをGVHDって言うんだよ。手術から時間が経っている場合、症状をコントロールするのは難しい。案の定、非常に強い薬を使っているようだ。顔が別人に見えたのは、薬の副作用で浮腫みまくってしまっていたからだと分かった。
最後まで読み終わり、いろんな怒りが襲ってきた。
まるで北朝鮮のテレビニュースのようだ。毛沢東語録の赤い手帳を振り回して暴れている紅衛兵のようだ。
「将軍様」や「毛沢東」の教えや教義を盲信して無茶をする病人。それを「勇ましく素晴らしい偉業」などと煽り立て、記事は病人を英雄に変えていく。
出来ない無理をして自分を痛めつけることが信仰だと思っているのだろうか。止めに入るべき身近な人までが一緒になって、止めるどころか煽り立て、一緒に崩壊への闇に落ちていく。私にはそんな風にしか思えなかった。
あんなに理性的で賢い子だったのに。信仰という名のもとに、無茶な精神論で自分の身体を痛めつけて何が嬉しいんだ。どうしてだ。
命の大切さ、人生の素晴らしさを教えてくれたのは、まぎれもなく君だったというのに。
生い立ちに恵まれず、暴力やクスリが身近にある環境の中で幼少期を送った私にとって、家庭に恵まれた君はとても眩しかった。君のお陰で、世の中は意外といいものなのかもしれないと知った。健康で、頭の回転が速く、ずば抜けて運動神経が良く、そしてとても端正な顔立ちだった。そんな君と過ごした春は、今でも私の心の中であたたかな光を放っているというのに。
なんでだよ。
どうしてそんなに体をイジメて快感に浸ってるんだよ?両親も健在で、今でも経済的にとても裕福で、当然奥さんもついてるってのに。よってたかって何してるのよ。
病人というのは、教祖や教義の偉大さを讃えるための兵隊じゃない。
病気になったのは信仰が足りないから?お布施が足りないから?
その子は記事の中で「俺は教祖様の弟子だ」と言い続けていた。
あのな。
本当に弟子を大切に思う師匠なら、25キロも痩せた人間が自転車で遠くから道場に通ってきたら、「アホ!」と一喝してタクシーに乗せて帰宅させるぞ。
月謝が足らないから上達しない、昇段しない、なんていう道場があったら速攻辞めるだろ?
あの子はイってしまった。トランス状態だ。私が知っていたあの子は、もうこの世にはいなかった。
心に溜まった汚泥を捨てて生きていく
長く生きていると、誰だって大なり小なり汚泥のように心にへばりつく不快感を抱えて暮らすことになる。溜まってくると心が重くなり、やがて重さに耐えられず歩けなくなる。
だから、倒れて動けなくなる前に汚泥は掻き出してしまわねばならない。
トラウマという心の致命傷は、専門家ではない私にはどうすることもできない。
けれど、自分で掻き出せる心の汚泥は、除去できる限り除去して心を少しでも軽くしたい。
人並みに暮らせるようになった今でも、気がつけば昔のつらかったことばかり考えている自分がいる。
私の人生はもう半世紀を越えた。まるで自らに懲罰を与えるかのように、昔の辛い体験ばかりを思い出す自分を捨ててしまいたい。
いわば、心の断捨離だ。
本当の断捨離と同じで、自分が持っているものを全部出し、要るものと要らないものを分別することから心の断捨離は始まる。
とはいえ、心の中にあるものには形がないので、押し入れや物置から引っ張り出してくることはできない。
目に見える形にして目の前に並べ、「もうこれは過ぎたこと。これからの自分には必要のない感情だ」と自分に言い聞かす必要がある。
そのために私は、心の中に溜まった汚泥のような不快な思い出を文字にすることにした。
自暴自棄になって心が暴走しないよう、人の目に触れる場所で。
登場人物の中にはまだ存命の人もいるので、起こったことをすべて赤裸々に描くわけにはいかない。フェイクも入っている。
それでも。
書き残せるうちに。覚えているうちに。指が動くうちに。
自己憐憫に浸りたいわけではない。私より過酷な人生を送ってきた人はたくさんいることも分かっている。けれど、平凡という言葉が似つかわしくない人生を送ってきた気はしている。
友人に話して慰めや肯定を得る方法もあるけれど、それも度が過ぎれば相手を困惑させる。自分に経験がないことを想像するのは大変で、慰めの言葉を考えるのは大変な作業だ。だから誰かが何とかしてくれると思ってはいけない。
なので私は、noteという場所を借りて、自分で自分の人生の棚卸を始めた。45年以上前の記憶や出来事をさかのぼり始めている。
人生には時として、死にたいと思うほど辛いことはたくさんある。「死んで楽になりたい」と思っても仕方ないよね、本当に辛いよね、と思わざるを得ない出来事を抱えておられる方々がいるのも知っている。
だから、苦悩の果てに自ら命を絶つ人を責める気持ちも毛頭ない。「あなた一人の人生じゃないんだから!」といった陳腐な言葉で自殺を止めようとは思わない。残った人を悲しませないように己を殺して生き地獄を生きていけ、というのは酷だ。
でも、心の中の汚泥を掻き出して心が軽くなりそうなら。あるいは、環境を変えて自分を生まれ変わらせることができそうなら。行動する価値はある。
運がよければ、こんなバカをやって笑える未来がやってくるかもしれない。「いめゆんな」「牧川冴子」「屋久杉」というのは、私がネット上でものを書くときに使っているペンネームだ。
地震が連続して来た時、入浴中だった屋久杉
— いめゆんな-ちいでる | 壮年FIRE達成 | 沖縄好きの物書き (@imeyun_kana) 2020年2月1日
夫「かぶりなさい(風呂の扉を開けてヘルメットを手渡す」
杉「全裸でヘルメット!」
夫「裸でエプロンする女もおる」
杉「ヘルメット全裸には需要がない」
夫「お前は何を身につけても需要ないから安心しろ」
杉、ヘルメット姿で安全に風呂から出る
夢を手放した手をだらりと垂らして暮らすほど、私は無欲な奴じゃない
夢は夢のままにしておくのがいい。叶わないから夢と呼ぶんだよ。
そんな言葉を聞くことがよくある。
確かに、追ってはいけない夢・実現させてはいけない夢というのは世の中にある。
極端な例をあげるなら、親を殺して自由になりたいなんて夢は絶対に諦めるべきだ。
夢を追いたい気持ちが強くても、仕事を辞めたら路頭に迷う、という事情を持っている人だっているに違いない。
でも、夢に挑戦して破れ去るのが怖くて「どうせ夢なんて叶わない」と言うのであれば、それは単なる自己保身だ。
注射が怖いと泣き続けてる子供みたいなもんだ。針を刺す前は怖い。刺した瞬間は物理的に痛い。でも少し時間が経ったら、痛みは消え、心も落ち着くじゃないか。
ひとつ前の記事で、子供の頃から夢見ていた仕事を、病気のために引退することにした、と書いた。確かに大きな痛手だ。無念でもある。
だからこそ、痛くて苦しいまま生きてたくはない、という反骨心も湧いてきた。
そろそろ仕事は辞めた方がいいな、と思い始めたのはずっとずっと昔のことだ。なかなか踏ん切りがつかなかったのは、夢を手放して心に空いた穴がどうなるのか分からず、怖かったからだ。
夢を諦めるとき、ひとは己の価値観と生き方を厳しく問われるもんなんだな、と痛感した。
長い押し問答の末、「もう辞めよう、次に行こう」と心をあと押ししたのは、もうひとつの夢だった。
それは全くお金にならない。人の役に立つ見込みもない。周囲の共感も得られない。でもひたすらに楽しくて仕方がないことだ。
「あの人、なんであんな無駄なことをしてるんだろう?」と思われてもいいじゃないの。「変わった人よねw」と笑われてもいいじゃないの。
夢を複数持つことは大切だ。切実に叶えたい夢を複数持っている人は逆境に強い。半世紀生きた経験上、私は強くそう信じている。
私は沖縄独特の言葉を本格的に勉強してみようと思った。これは、亡くなった娘の遺言で始めたもので、当初は供養の積りで続けていた。ところが思いがけず、面白さの深みにはまり込んでしまって出られない。何の役にも立たない言葉の勉強をするくらいなら、英語でも中国語でもやればいいのに。分かっちゃいるけど止められない。
心の痛みを麻痺させ、泣き明かす時間を減らすのにもってこいだ。
先日私は、最後の仕事が終わったその足で羽田空港に向かい、沖縄に飛んだ。沖縄独特の言葉(ウチナーグチとかしまくとぅばと呼ばれてる)の検定試験を受けるためだ。
沖縄県内でも、この言葉が分かる人は年々減っているそうで、県をあげて言葉の保存にとりくんでるそうだ。言葉が分かれば沖縄はぐっと面白い島になる。エイサーという踊りの歌の歌詞、沖縄芸人のお笑いなど、まだまだ文化の端々にウチナーグチは残っている。
それでもこの言葉に興味を持つ沖縄県民は多くない中、県外から飛行機にのって検定試験を受けにくる奴がいるらしい。
沖縄の新聞とテレビが私のことをとりあげ、新聞の1面で大きな記事になり、沖縄の有名プロデューサーからテレビ局に呼ばれたり、直接電話やメールをもらったりした。
彼らのひとりが私にこう尋ねた。
「亡くなった娘さんの夢がいつしかあなた自身の夢にもなったんですね。検定試験を受けて自分の力を試しにきたんですね。あなたの次の夢は何ですか?」
その言葉を聞いた時、心の中に白い扉が見えた。少し開いている。それは私の夢の扉だ。
扉が開いたら、その先にまた扉が見えてくる。輝く扉が見えてくる。体調が許すうちに次の扉を開けよう。開けていい。開けなくちゃいけない。
身体障害者手帳を持つ身となった私にとって、次の夢はハードルが高い。それでももうひとつ夢をこの手でつかんでやりたい。
気持ちが折れないよう、私は沖縄のマスコミの前で宣言してきた。
「審査に合格できたら、この4月から私は沖縄で大学生になります」
一銭のカネにもならない言葉をうきうきと勉強してみたいと思っている。カネを生まない夢を追いかけてもいいじゃないか。
合格通知は1月下旬から2月上旬には届くようだ。この検定試験は今年はじめて開催されるため、色々な予定がはっきり決まってないらしい。気長に待っているところだ。
沖縄県外で初めての合格者になりたい。大学の志願書に「○級を●●点で合格」と書いて提出したい。
「合格したら教えて下さいよ、絶対ですよ」
とマスコミの人が念を押してくれた。社交辞令でなかったら、沖縄リピーターなら多分誰でも知ってる有名人と放送局で会えるかもしれないw
既にyoutube上で、うちなーぐちの動画に標準語字幕を付けていくつかupしてある。もっと力が付いたら、さらに色んなことにチャレンジしたい。ひとつの夢が別の夢を生み、それを叶えるために頭を使い、スキルが身につく。
字幕つき ありんくりん うちなーぐち(沖縄方言)版 ラッスンゴレライ さんま御殿
●うちなーぐち(沖縄方言)字幕追加●標準語字幕つき じゅん選手 オンデーズCM
夢は人を幸せにする。人生を豊かにする。大切なものを失った悲しみを癒し、立ちあがって歩きだすきっかけをくれる。
だから、夢を貪欲に追う心を忘れてはいけない。夢に無欲であってはいけない。
私が若い頃の日本と今の日本はまるで別の国のように経済が停滞している。お若い方に「夢を持ちましょう♪」と気楽な気持ちで言ったら怒られるかもしれない。
でも、私の夢もそうだけど、本当に小さな夢でいい。小さな夢すら見つからねえよ、という方がいたら。カイワレ大根の種を買ってきて濡れたティッシュの上に置いてみて。植物は毎日確実に大きくなるので、努力を裏切りません感がちょっとした達成感を生む。カイワレの栽培は簡単。ティッシュが乾かないようにちょろっと水かけるだけ。
大きな夢なら、目標を細かく分けて、少しずつ登っていくといいよね。たとえ登りきれなくても、自分の力で登ってきたという事実が、あなたのこれからの人生を生きていく自信をはぐくむはずだ。
検定試験に合格したら、勉強方法を書いたブログを開設する。これもまた、次の夢の扉。
これから何年、私は自分の頭でモノを考えられるだろう。指が動くだろう。脳血管奇形をたくさん持ってる私は、健康な同世代オカンよりも健康寿命が短い(というか、もう既に健康ではない)。
「あれやりたいんだけど、どうしようかなあ・・」
と悠長に悩んでる暇がない。やりたいならやる。笑われてもやる。カネにならなくてもやる。
やるといったらやる。私は無欲な奴じゃない。
ゆみがてぃーちねーんなてぃん、なちあかさんてぃんしむん。
(夢がひとつなくなっても、泣き明かさなくてもいい)
夢を手放す時がきた
今年度いっぱいで私は退職することにした。
まだやれる。数字もとれる。
自分でも勿体ない辞め方だなと思い続けた。
その一方で、「もうアンタは役に立たないから辞めてくれ」
と言われて職場を去るみじめさを味わいたくはなかった。
この仕事は、子供の頃からの夢だったからだ。
夢はキレイに終わらせたい。
振られる前に振りたい。そんな気持ちになっていた。
もう余程のことがない限り、私が仕事をすることはないだろう。18歳の時からずっと「先生」という肩書でお金を稼いできた私は、これから先は無職。しかも、家事が十分できるとはいえない、年金で暮らす障害者。
いつかこういう日がくることは覚悟していた。私が障害者になった原因は遺伝性の病気だ。子供の頃から身近な人が、同じ病気で少しずつ壊れていく姿を見て育った。
みんな短命だった。健康寿命は極端に短かった。
私は障害者手帳を持つ身にはなったけれど、まだなんとか健常者を装える。
人生の次のステップに向けて、色んな準備をするなら今しかない。
私の脳は、もうマルチタスクをこなすことができない。仕事をやりながら次の人生の土台を作る作業は無理だった。
やりたいことをやり切る前に動けなくなることと
老後の資金が足らないかもしれないとおびえること
選ぶとしたらどちらだ?
私の仕事は1年ごとの請負契約だ。年度始めに契約書を交わす。契約を打ち切られたら終わり。切られていなくなる先生達を私は何人も見てきた。
次年度の契約は更改しない、今年度いっぱいでクビだ、と内示を受けた先生の中には、その日まだ授業が残ってるのに、激昂してカバンを持って講師室を飛び出していった人もいる。まだ数カ月残っているその先生の担当する授業をどうするか、残った講師が手分けして代わりに教えた年もあった。
バイト時代も含めれば、この業界での仕事は35年にもなる。
キリもいい。
歳の離れた夫は老齢年金をもらえる年齢になった。幸いまだ元気で、仕事はやりたくて仕方ないと言っている。
後方支援に回ろう。そういう人生もアリだ。
私はもう充分、夢の中を生きてきた。
夢はいつまでも人をやさしく包み続けてはくれない。
強い風が吹きつけて、一瞬にして夢という雲は吹き飛ばされてしまう。
夢をはぎ取られて丸裸になった心の寒さよりも
まとっていた夢を自ら脱いで歩きだす心細さの方が
いくらかはマシなんじゃないか。
そんな気がして。
喪失感は心の奥に真空地帯を作る
大切なものを失った時、人の心には大きな穴が空く。
私は既に両親と娘を失っている。長年重度の身体障害者として生きてきた両親に関しては、子供なりにある程度の覚悟をしていた。身体障害以外にたくさんの病気を併発していたからだ。
ところが娘は突然家の中から消えてしまった。家のどこを見てもそこに娘だけがいない。座っていた椅子、寝ていたベッド、残していった制服。どこを見ても娘がいない。
大切なものの喪失は死別だけではない。失恋もそうだ。そして失うものは生き物の命だけではない。大きな目標を失った時にも私たちは喪失感を感じるものだ。
心というものは、穴が空いたままではいられない性質を持っている。何かで穴をふさぎたい。穴をふさいでくれるものはないかを必死に探し求めている。吸い込みたがっている。その様子はまるで、真空地帯のフタを開けた瞬間に一気に空気が入り込んでいく様子に似ているなとよく思う。
失ったものが大切であればあるほど冷静さを失う。心の真空状態も強い。だからこそ強く意識しておかねばならない。何で穴をふさぐのかを間違えたら、その後の人生を狂わせかねないと。
寂しさを紛らわすために酒に逃げる。くだらない男を渡り歩く。怪しげな新興宗教にお布施し続ける。買い物依存になる。その辺からガラクタを拾ってきてゴミ屋敷を作ってしまう。
心の穴を埋めることを急いではいけない。混乱と悲しみの中にあっても、残っている少しの冷静さで踏みとどまってほしい。そして考えてほしい。
「これで心の寂しさを埋めて、将来の自分は本当に幸せになれるだろうか。おかしなものを吸いこもうとしてるんじゃないか」と。
空いている穴を敏感に探し当てて向こうから近付いてくる鼻の利くやつらもいる。
両親を相次いで亡くした時、母のいとこにあたるおばさんから電話があった。要旨はこうだ。
「あなたの信心が足らないから両親が病気になり、こんなに若くして亡くなった。功徳を積まねばならない。この宗教に入信しなさい」母と仲良かった人なのでガチャ切りもできず、しばらくは言われるままに聞いていたけれど、「親が死んだのはあなたのせいだ」と言うような人の話は二度と聞きたくない。「もう充分です、結構です!」と言って電話を切り、大声をあげて泣いた。
別の親戚からは、某宗教新聞の定期購読を勝手に申し込まれていた。新聞販売店に連絡したら、「~さんの名前で、今月から新聞を配達してくれと言われた」とのことだった。新聞紹介数が増えれば功徳が積めるシステムなんだろうか。
どちらの親戚も私に不快感を感じさせてくれたおかげで、宗教の勧誘に巻き込まれることはなかった。当時はまだ若くて判断力もなかったので、不快感が防波堤になってくれてよかったなと思う。
喪失感は人の身体と心をひどく消耗させる。自分でできる回復方法のひとつは睡眠だ。少なくても私には有効だった。
両親がたてつづけに亡くなった後は、「寝よう!」と意識しなくても、身体の方から睡眠を欲してきた。夕食を食べながらそのまま朝まで寝てたこともあるくらい、とにかくとにかく眠かった。
もうひとつ有効だった方法は、頑張っている人を応援することと、健全な趣味にのめり込むことだった。
私は沖縄固有の言葉で「うちなーぐち」と呼ばれる言葉をイチから勉強した。娘がやりたくて叶えられなかった夢のひとつだったからだ。代わりに叶えてやりたかった。
教材がほとんどなく周りで使ってる人もいない言語を学ぶのは大変だった。泳げないのに大海に放り込まれた気分だった。悲しみを感じるヒマがないほどに大変だった。だからよかったんだろう。
ツイッターで発信することにした。本土の人間だけど沖縄の言葉を勉強したい、教材も指導者もいなくて困っている、でも勉強したいと。その声を拾ってくれた沖縄の人たちが、言葉の海でおぼれてる私に手を差し伸べてくれた。お陰で私の心の穴は、健全で生産的で温かいもので満たされていった。
たとえある程度穴がふさがっているように見えても、元には戻らない。きっと一生戻らない。けれど、穴のふさぎ方を間違わなければ心は強靭になる。
筋肉を鍛える時と似ているかも知れない。詳しいことは知らないけれど、筋トレをすることで一度筋肉の繊維を壊し、それを修復することでより強い筋肉が作られるそうだ。
偉そうに書いている私も、まだ心の穴を埋め続けている最中だ。自分に向かって書いてるような気がする。
勉強した言葉で好きな歌の歌詞を翻訳して歌いながら、自分の心を鼓舞してみたりする。
ぐそーから ちてーぶさん。わーたみどぅ なちあかさんけー。ぐそーから あびぶさん。わーくぅけー むっとぅあらん。(荒野から君に告ぐ。僕のために立ち止まるな。荒野から君を呼ぶ。後悔など何もない)
この世を旅立ってしまった人が、現世に残した大事な人に全身全霊を掛けて訴える歌。中島みゆきさんの「荒野より」の一節だ。
まだ勉強して日が浅いので未熟だ。意訳しないとメロディにはまる言葉が見つからない。
だから来年度は、体調が許すなら、沖縄の大学で本格的に言葉の勉強をしようと思っている。
沖縄県勢のアルプススタンドで踊りたい一心でオカンは甲子園に行った
沖縄県民は高校野球をアツくアツく応援する。本当にアツい。(準)決勝まで残った時は、車社会の沖縄から車が消えた。みんなテレビの前で応援してるからだ。仕事や外出どころじゃないってことだ。
元々沖縄が独立国だったせいだろうか。
それとも、地理的に本土と非常に距離があるせいだろうか。
とにかく「沖縄」「琉球」「島」とつくモノが大好きで別格。その反面、まだ本土への劣等感や反骨心を心に抱いている人もいる。
色んな意味で「わったーうまりじま(自分が生まれた島)」を殊更に大事にする県民性だと、行くたびに強く思う。
それが顕著に現れるのが高校野球だ。
今年は美爆音という異名をとる吹奏楽部を有する習志野高校と、沖縄尚学高校があたる好カード。組み合わせ抽選会を見た瞬間に、障害者手帳を手にして条件反射的にJRの緑の窓口に急いだ。新幹線の切符を買うためだ。
夫に報告したのは、切符と宿を押さえた後。我が家ではいつものことだ。
「明日、甲子園行ってくるわ」
「気をつけて行ってらっしゃ~い(にっこり」
多分、私がまだ動けるうちに、やりたいことは存分にやらせてやろうということなんだろうな。というか、引きとめても止まらんヤツだと身にしみているんだろう。済まんねえ・・
よっしゃ (^-^) これで踊れる。ハイサイおじさんで踊れる。沖縄県民じらーして(沖縄県民を装って)、アルプススタンドで踊れるぞ、アイヤイヤサッサー♪と叫びながら踊れるぞw
いい歳して何バカなことを・・wと笑う人もいるだろう。
勝手に笑ってなさい。
半世紀生きてきた病人が、誰にも迷惑を掛けず自分が稼いだカネで何やってようと、世間がとやかく言うことじゃねーの。
人を蔑む人生よりも、人を応援する人生の方がずっとずっと楽しいのに。人生がもったいないよそれ。
せっかくなので第一試合からずっとアルプススタンドに座って試合を見てた。沖縄は第三試合だというのに。いい席を確保したい、それだけのために、炎天下の甲子園でカチワリの氷で体を冷やしながら試合を見てた。
みんなじーっと試合を見てる。感情をあらわにするのは試合が動いた時だけ。「おおーっ」と軽く声が聞こえる。普通はそうだよな。
そんな試合を2つ見た後、第三試合でやっと沖縄の応援団とファンがわああっ!とアルプススタンドになだれ込んできた。アルプスからあふれて外野までいっぱいだ。本土で働いている沖縄出身の人がたくさん集まったんだろうな。
そしてだ。
試合はまだ始まってもいないってのに、なんか勝手にアルプススタンドがカーニバル状態になりはじめた。
三線(さんしん)を天に突き上げて歌ってるオッサン、ゴーヤーをカバンから出すおねーさん。自撮りしながら指笛吹いてるヘンなメガネとクバ笠かぶってるにーさん。酒のんだんだろな、いかに夫婦仲が悪いかを切々と訴えつつ陽気に踊ってるヤツまでいる。ここは居酒屋じゃねえよ甲子園だよ分かってるか?w
試合が始まる前からアルプススタンドはお祭り騒ぎだ。
このテンションは本土にはない。きっとない。見たことない。
「ハイサイおじさん」や「オジー自慢のオリオンビール」が流れる中、酒場の酔っ払いみたいなノリと一体感の中で、「アイヤ、アイヤ、アイヤイヤサッサー♪」と吹奏楽の演奏に合いの手を入れて叫ぶ。みんなが叫ぶ。私も叫ぶ。
全然恥ずかしくないどころか、じっと静かに椅子に座ってたら「大丈夫ですか?熱中症ですか?」と心配されるくらいだ。
高校野球は熱狂するのが当たり前。踊る。叫ぶ。笑う。
遠いところから来てるのに。というか、遠いところからやってきたからこそはじけるのかもしれないね。そして、ふるさとから遠く離れて本土で働いてたりするからかもしれないね。
応援の甲斐なく沖縄負けちゃったんだけどね。それでも沖縄は素晴らしかった。
朝から見た2試合と違って、習志野高校の校歌が鳴り終わった瞬間、沖縄のアルプススタンドは習志野に大きな拍手を送ったんだよ。
朝の2試合では、負けが決まった瞬間に無表情で帰り仕度を始めてる人が多かったってのに。
沖縄のアルプススタンドは最後まで素晴らしかった。あんなに盛り上がって応援した自分たちが負けたというのに。それでも勝者におめでとうと言える。なかなかないんじゃないかな。
私は習志野高校がある県に住んでいるのだけれど、あえて沖縄側アルプスで観戦して本当によかった。
そして、甲子園の砂を袋に詰めている球児の姿を遠目に見ながら思ったよ。
「砂を沖縄に持って帰れる時代でよかったな」と。
甲子園に沖縄の代表が初めてやってきた時、沖縄はまだ日本に返還されていなかった。要するに、沖縄はまだアメリカに占領されたままの外国だったんだ。戦争のせいだよ。
だから首里高校の選手が船で沖縄に戻った時、検疫に引っ掛かるという理由で、せっかくの甲子園の土を海に捨てられてしまった歴史がある。無念すぎる。パスポートを持って国境を越え、せっかく甲子園までたどり着いたのに。
その後、石は検疫に掛からないということで、首里高校に石が届けられたと聞いた。
歴史的・政治的に難しい問題がまだまだあるけれど、同じ日本人として戦い、応援し、見送ることができたことを私は本当によかったなと思っている。
帰りの新幹線で気がついた。日焼け止めを塗り忘れた足の甲が、火傷したみたいに真っ赤になっているw
「馬鹿なことをして・・その歳じゃ日焼けは元に戻らないわよ」
と呆れられるかもしれない。でもいいの。元気なうちにやりたいことを思いっきりやってるんだから、足の甲が日焼けしてても何の問題もないの。
足は動けばいいの。
歩ければいいの。
それで幸せなの。
半世紀の間 病気と共に生きてきた私に、あと人生の時間はどれくらい残ってるだろう。それが分からんからこそ
アホなことは徹底的にやる。
遠慮せずに目一杯やる。
中途半端が一番カッコ悪い。
熱狂的に生きる。熱狂的に応援する。
それの何がアカンのや? (^-^)