●心の中の森を行く●

世間の常識というやつがあなたを幸せにしてくれるとは限らないよ

みんなと一緒でないと不安。その気持ちを捨てないと、あなたは幸せになれないよ

f:id:samarka:20181001234921j:plain

このブログに目を止めて下さった方、こんにちは!

そしてありがとうございます。

 

*******

ここにブログを書き始めた当初は、自分の心の整理のつもりで、思いつくままにただ文章を投下しているだけでした。

 

けれど、何度かそうしているうちに、文章を書くことの楽しさが私にも分かってくるようになりました。

 

************

これからも腰を据えて書き続けるために、wordpressを勉強している最中なんですが、難しくてまだうまく使いこなせておらず・・

 

またここに戻ってしまうかもしれないので、こちらにも少しリンク等を貼り続けてみることにしました。

 

もし「じゃあ、その新しいブログも試しに読んでやろうじゃないか」という方がいたら嬉しいです。

 

***********

ブログ名は

 

自分を幸せにするものは 世間の目じゃなく自分の心 - ええやんか 変わった人やと言われても 

 

です(笑)

 

自分らしく生きていくためには、時には世間の常識からはみ出さなきゃいけないことがある。それを怖がっていては自分の人生を楽しく生きていくことができない。だから時には、「あの人、変わったことしてるねえw」と思われてもいいじゃない♪ ・・そんな気持ちでタイトルをつけました。

 

************

これまでこのブログに書いてきたような記事もあります。

 

お嬢様と呼ばれた娘が貧乏人に転落するまで - ええやんか 変わった人やと言われても

 

障害者を父に持つ娘が 親戚の家をたらいまわしにされるまで - ええやんか 変わった人やと言われても

 

 

でもせっかくなので、書くジャンルを広げてみようと思いまして、こんなのも書いてみました(笑)

【中年巨デブが45キロ痩せた】カネを掛けないアラフィフダイエット① - ええやんか 変わった人やと言われても

 

実話です。45キロも落とせる脂肪があったことが悲しいですw その一方で、世の中に氾濫しているダイエット法は、かつての私のように体重が3桁ある人間には不向きだと分かりました。

 

ある程度まで痩せてきたら、あとは普通の人のダイエットと同じです。とにかくお金を掛けずにリバウンドなしのダイエットを目指しました。いわゆる巨デブと言われる人だけじゃなく、もっとスリムなところからのダイエットにも通じるものがあります。

 

高額なダイエット食品やサービスは利用していません。そのため、アフィリエイトで「この商品はいいですよ~」と書いてお金をもうけることはできない記事です(笑)

 

痩せたい理由がなんであれ、与えられた身体と寿命を大切にして生きるためには、適切な体重と食事のコントロールはとっても大事。

 

私は病気や障害で、身近な人間をたくさん亡くしました。遺伝性です。私の身体も少し調子がおかしくなっています。健康は大切です。なので、もしこの経験がどなたかのお役に立つのなら・・と思って書きました。

 

顔はぼかしてますが、痩せる前と後、同一人物だと分かる画像を貼りました。

 

************

私が初めてここに文章を投下した時、スターマークをつけて貰えた時の嬉しさ、今もはっきりと覚えています。ありがとうございました。

 

だから、ずっと「はてな」で続けていきたいな・・という気持ちも強いんですが、しばらく両方を行き来することで、自分の気持ちがどちらに振れるか、実験してみようと思います。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

ねこが逝った。おまえを拾った公園の花と共に<2>

f:id:samarka:20180905182458j:image

 

前回の記事を書いてからもう随分経った。 

 誰も通らない草むらから転げ落ちてきた子猫は、長寿猫の表彰を受けて程なくして亡くなった。今はその賞状を背にして、骨壷の中で静かに座っている。抱き上げると、ひんやりとした陶器の壁に当たって無機質でかそけき音がする。

 

そうだよな。お前はもう骨しか残ってないんだもんな。

 

そんな事実を突きつけられ、その都度に小さな骨壷をそっと元の場所に戻す毎日を送っていた。そして、骨壷の前に飾っている花が枯れるたびに、私はあの草むらに通った。季節はちょうど5月。沢山の草や花が芽吹き、美しい茂みを作っている。「抜かせてくれな、ごめんな、大切に飾らせてくれな」とつぶやいて、名も知らぬ雑草の花を少し抜いて持ち帰った。

 

こんな1カ月の間に、動植物育成系アプリが私のスマホの中へ次々とダウンロードされていった。つるつるした画面の中の猫、鳥、カメ。エサをあげるとすぐ食べる。首を支えてやらずとも、シリンジを突っ込んだりせずとも、みんなすぐにエサを食べてくれる。悟られないように薬の混ざったエサを食べさせるにはどうしたらいいか。もうそんなことを一切考える必要はない。みんな毎日すくすくと元気に育っている。手の掛からないつるつるした命だ。

 

でもな。いくら立派に元気に育っていっても、これは機械だ。命ではない。

 

衝動的にアプリを閉じ、検索画面に「猫 譲渡 (住んでる都道府県名)」と入力して、私は唐突に検索をし始めた。いないか?お前とよく似た捨て猫はいないか?お前、どの子なら自分の代わりに可愛がってくれていいと思えるんだ?いるかこの画面の中に?

 

とあるサイトにたどり着いた。個人もしくは動物保護団体と、猫を飼いたいと思っている人をマッチングさせるサイトの一つだ。

 

猫がたくさん登録されている。みんな可愛い。ページを繰っていく。

 

ふと指が止まった。こいつか?なあミッキーよ。こいつか、お前が気に入った子猫は?

 

1カ月前に火葬車の扉を閉めた時、私たちはミッキーに話しかけていた。

 

早くもどってきなさい

どうしても戻れないなら「自分の代わりにこいつを可愛がれ」

そう思える子猫を教えなさい

猫の寿命は20年前後だ

飼うからには最期まで責任を持って飼いたい

私たちはもう若くない

だからなるべく早く教えなさい

お前の代わりにどの猫を可愛がって欲しいのか

教えなさい、かならず

 

お前はこの約束を果たしてくれたのか?このほわほわした毛のこの子か?この子でいいのか?もし違うなら、私をイヤ~な気分にさせてみてくれ。でももしこの子でいいのなら、逆に晴れやかな気持ちにさせてみて欲しい。

 

ネットで面会の申込をした。その子猫と会わせてもらえるまでの数日間、私の心はずっと晴れやかだった。そうか、この子でいいんだな?何度も聞くけど、いいんだな?

 

始めて手に乗せてもらったその小さな命は、キロ単位でなはく数百数十グラムと表現されるとっても軽くて温かい重さだった。精一杯鳴いているけれど、とてもか細い。

 

最初に出会った人の理解がなければ、とうの昔に窒息死させられていたであろう小さな命だと聞いた。私はその命のバトンを次に受け継ぐことになる。私にそのバトンを託した人は、これまでに何匹もの捨て猫の世話をし、飼い主を探し続けてきたという。たとえ短い時であったにせよ、世話をしてきた猫を飼い主に託す時はいつも、別れの辛さで胸が詰まるそうだ。

 

子猫への応募はとても多いんです

 

その人は言った。

 

でも、18年前に草むらで猫を拾い、これだけ長く猫と暮らしてきたあなたにこの命を託したい。そう思いました。どうぞこの子を幸せにしてやってください。

 

ほわほわの命がまた我が家にやってきた。

 

その後、病気で猫を飼えなくなった知人から猫を一匹託された。

 

そして今、この文章をパソコンに打ち込んでいる私の腕を枕にして、仲良くだらあああんと伸びている。

 

ここには少し前までおじいちゃん猫がいたんだよ。お前たちをここに呼び寄せたのはそのおじいちゃんだ。おじいちゃんに色々教えてもらいなさい。最後の最後まで本当にいい猫だった。見習いなさい。

 

そして長生きしなさい。

 

よくきたな。ありがとう。

f:id:samarka:20180906010508j:image f:id:samarka:20180906010525j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

ねこが逝った。おまえを拾った公園の花と共に<1>

f:id:samarka:20180708174853j:plain

移動火葬車の窯が開いた。

 

「ここはこいつと最初に出会った場所なんだ。だからここで見送ってやりたくて」

 

ぬいぐるみのように軽く、軽石のようにごつごつした身体を抱きしめながら、私は家族の話をじっと聞き続けていた。

 

ここは幹線道路からほど遠くない場所にあるさびれた公園。周囲にあるのは、限られた人しか足を運ばないような公共施設だけだ。人家はない。夜になると、頼りない光を放つ街灯が、誰も通らない寂しい道をぼんやりとともす。昼間でさえこの道を歩いている人はほとんどおらず、夜はほぼ全くの無人地帯と化す。ここはそんな悲しい場所。

 

----------------------

 

18年前のある日、家族はジョギング中に足を痛めてしまったそうだ。家にたどり着く一番の近道はここだ。暗くて気味悪いけど、とにかく早く家に帰りたい。必死に足を引きずりながら怯えて歩いていたその時、公園の草むらが突然がさがさっと音を立てた。まずい。まずい。なんでこんな時に限って捻挫してんだよこの足は!歩け、とにかく歩け。何が動いた?いや、そんなことはどうでもいい。誰か、誰か助けてくれえっ!!

 

切迫する心と走れない足。がさがさした音は同じスピードでついてくる。うわああああああああっ!!と叫びそうになった瞬間、がさがさの正体が道路に転げ落ちてきた。小さな耳が立っている。それは、やっと通った人間を追って必死に走ってきた子猫だった。

 

野良猫だったのか・・・。小さいな。大丈夫か?

 

そろそろと近づいてみたが逃げない。むしろ猫の方から近寄ってくる。しかも野良猫とは思えないきれいな身体で。

 

「多分、飼われてたのに突然捨てられたんだよ。猫風邪もひいてないし、身体に傷がなかったもん。毛並みもきれいだった。人間を怖がらなかったのも多分、ひとに飼われてたからじゃないかな。可哀想なことするよな。こんな場所、誰も通らないじゃん。猫を捨てる瞬間を誰にも見られる心配もない。角を曲がれば幹線道路。車で来た人にとってはここは便利な場所だと思う。でも猫にとってはどうだ?ほとんど人が通らない場所に突然置き去りにされて、これからどうやって生きていけっていうんだよ。酷いじゃないか」

恐怖心は一瞬にして憐憫の情に変わったという。まだ「にゃあ」と鳴くこともおぼつかない小さくて温かい生き物を手のひらに載せ、家族はよろよろと家にたどり着いたそうだ。

 

-----------------------

 

いま私の腕の中で硬く冷たくなっているのは、あの時あのまま消えていたかもしれない、ミッキーという白キジ柄の猫。私達と分かち合ってきたのは18年という長い時間。人間に換算するともうすぐ90歳。そう遠くないころにお別れがくる覚悟はしていたけど、それが今日なのか。なんで今日なんだ。大往生なんていう言葉は使いたくない。どんな言葉で修飾しようとも、大事な命との別れの辛さが癒されることはない。

 

私たち家族のそばには、しんみりとした言葉で話してくれるペット専門の火葬業者の男性が立っている。私たちの決心がつくまで、空気のようにそっとそこによりそってくれている。

 

戻ってきなさい。早く戻ってきなさい。なるべく似た柄の猫になって戻ってきなさい。初めて会った子猫の時の姿になって戻ってきなさい。

 

でもどうしても戻ってこれないのなら。

 

自分の代わりにこの猫を可愛がってくれ、とお前が思える猫を見つけて欲しい。早く見つけて欲しい。そして、どこに行けばその子と会えるのか教えなさい。お前の言葉はひとには分からない。だから神様か仏様に頼みなさい、翻訳してくださいと。翻訳して飼い主の心に届けてくださいと頼みなさい。お前の気持ちが届くまで、私たちはずっと静かに待ってるから。

 

骨格標本みたいになってしまったその身体を、長年使い続けた赤い毛布から、ひんやり冷たそうな白い板の上に委ねるまで、私はずっとずっと心の中でミッキーを諭していた。

 

-----------------------

 

元気だった頃のぽってりした重みとふわふわと柔らかかった身体。私の手はあの感触をまだはっきりと覚えている。

 

あのころは。

あのころは。

あのころは。

 

たくさんの「あのころ」が心の中でこだまのように響く。この響きにゆったりと心を委ねることが、おそらくミッキーへの供養になる。だから、私が覚えている全てのミッキーと、今は心の中で思いっきり遊んでいよう。

 

泣いた。

おいおいと泣いた。

 

独り旅バックパッカー歴30年超の女が語る【貧乏旅行の宿事情】

スマホがない。デジカメない。スマホは当然あるわけない。ネットもない。コンビニない。LINEって何だよ線のこと?・・・私が独り旅を始めた1985年の日本はこんな感じだった。 

 

出来事で振り返ってみるならば、日本航空機が御巣鷹の尾根に墜落して世界最大の航空事故を起こした年。阪神タイガースが優勝して、喜び狂ったファンの手によってカーネルサンダース道頓堀川に強制ダイブさせられた年。電電公社はNTTに、専売公社は日本たばこ産業(JT)へと名を改めて民営化。青森と函館を結んでいた連絡船に取って代わることになる青函トンネルが貫通した(営業運行はまだ先になる)。夏目雅子さんが亡くなり、「八時だョ!全員集合」という大人気お笑い番組が終わり、久米宏の「ニュースステーション」が始まり、羽生善治が中学生プロ棋士になり、秋元康プロデュースの「おニャン子クラブ」というグループが出演する「夕やけニャンニャン」が人気を集めた時代だ。読んでくださってる方々はこの中のいくつをご存知なんだろう。とにかくもう過ぎ去ってから長い年月が経ってる事柄ばかりだ。

 

この30有余年の間に新しいモノやサービスが生まれたその影で、ひっそりと姿を消したり変えたりしたものがたくさんある。日常生活の中だけでなく旅に関係する分野でも同じことが言える。

 

私はこれから1985年から始めた旅の記録を書き残そうと思ってるんだけど、今はもうないモノやサービスについて言及しないといけない場面がたくさん出てくることだろう。物価はほとんど変わっていないんだけど、生活に必要とされる物品やサービスの変化は本当に大きい。具体的なことは、今後の記事でちょくちょく触れるとして、今回の記事では「ユースホステル」を切り口として、当時の貧乏バックパッカー旅行の宿泊事情についてあれこれを書いてみたいと思う。

 

---------------------------

 

本題に入る前に、国際通貨基金IMF)の統計データに基づいて作られたグラフを使って、この40年間の日本の物価水準について書いておこう。今後の旅行記録の中にも、モノやサービスの値段について書くことがあるだろうから。

 

よく「当時の100円は現在の価値で言うと100万円に相当する」といった言い回しを耳にすることと思う。確かに物価や貨幣価値は時代とともに変化してきたけれど、それには但し書きがつく。1970年代まではそうだった。

 

1985年を基準にして以下のグラフから数字を拾うなら、当時100円で買えたものは今でも大体100円で買えるということだ。1980年代以降の記憶しかない人にとっては、モノの値段があまり変わらないことや、むしろ安くなっていくことにさほど違和感を感じてないかもしれない。でもそれは日本国内だけの話であって、以下のように主要国の物価変動率はこんなに大きいんだ。

f:id:samarka:20180704132158j:plain

https://toukeidata.com/country/bukka_suii_hikaku.html

 

私の肌感覚で言うならば、100均で買えそうな系統の商品は、昔と比べて随分安く手に入るようになったと思う。ただしそれは、同じ質のものが安く買えるようになったという意味ではない。おおよその傾向として、商品の質を落として価格を抑えていることが多い、ということだ。昔と同じようなしっかりした品質のものを買いたいのなら、やはり昔と同じくらいのお金を払わないといけない(あくまでも私の肌感覚においてだけれど)。

 

旅行に関して書くならば、旅費を抑えるのに役立つサービスが登場したことによって、いわゆる貧乏旅行に掛かる旅費はかなり圧縮できるようになったと感じる。

 

具体的にはLCCの就航と時折打ってくるっ破格のバーゲンセール。これは長距離高速バスについても同様だ。そして、交通・宿泊予約における早割サービスも浸透した。さらには、女性でも安心して利用できるカプセルホテルも珍しくない昨今だ。いまやカプセルホテルは、終電に間に合わなかった酔っ払いや、宿泊費を抑えたい出張族専用の宿泊施設ではなくなった。

 

----------------------------

 

さて、やっと本題だ。これを読んでくださってる若い方は、ユースホステルというのを知ってらっしゃるだろうか。

 

どう説明すればいいんだろう。詳しくて正確な情報はwikipediaなどを見ればわかることだから、ここではざっくりと書いてみる。若者に安価かつ気軽に旅してもらおうという趣旨で作られた世界的な組織があり、そこが運営しているのが「ユースホステル(YH)」という宿だ。手元に残っている当時の資料を読み返すと、安いYHだと2000円でもおつりがもらえた。素泊まり千円台後半ってことだ。素泊まりのところも多いが、朝食夕食を提供するところもある。それでも当時は4000円でおつりがくる、貧乏バックパッカーにとってとてもありがたい宿だった。自分で布団シーツを持ってくと、宿泊代金から100円程度の割引があった。

 

会員制で、日本全国のみならず世界各地に同様の宿が多数存在する。今は安いビジネスホテルや小奇麗なカプセルホテルなどに押されて、YHはどんどん廃業に追い込まれている。中には、宿泊施設としてまだ営業を続けてるけどYHと名乗ることはやめた、というところもある。YHというチェーン店的なシステムに乗っかって営業するメリットがないんだろうな。

 

YHに宿泊すると、会員証についている用紙にその宿オリジナルスタンプかシールを貼ってもらえる仕組みで、スタンプフェチな私にはそれも楽しみの一つだった。スタンプやシールを押したり貼ったりしてくれたYHのほとんどは、廃業してしまって今はもうない。その当時の会員証は家にまだあるんだけど、夫の大量の本の山に阻まれてすぐに取り出すことができないんだ。出てきたらここに画像を貼ってみようと思ってる。こんなに本を買ってどうする気だよ。何百年生きるつもりでいるんだよまったく。

 

次は宿のスペックとサービスについて。これまで私が泊まってきたところは、二段ベッドが複数並んでいる相部屋が多かった。今でいうドミトリーだ。ところが驚くべきことに、私が宿泊した範囲では、私物を預けるコインロッカーが存在しなかった。当時はパソコン・スマホ・デジカメなどの電子機器がなかったため、外出時に宿に置いておく荷物の中に残るのは着替えや洗面道具や常備薬くらい。盗んでもあまり金銭的価値がない。だからロッカーに入れてなくても何とかなってたんだろうな。

 

朝食夕食を提供しているYHでは、決まった時間に食堂に行って、知らない人達と一緒に食事をする。宿にもよるけど、食べ始める時間は宿泊者全員同じ。その時間に間に合わないときは、あらかじめ電話をしてけば、自分の分の食事を残しておいてくれる宿もあった。食事の後はみんなで食器を洗う。流れ作業だ。

 

それが終わったら「ミーティング」の時間。ミーティングといっても、何かを話し合うために集まる訳ではない。運営者(ペアレント)や運営の手伝いをしている人(ヘルパー)と一緒にわいわい話をしたり、誰かがギターを弾いてみんなで歌を歌ったりすることをそう呼んでいた。YHによっては、狂ったように踊り続ける時間でもあった。今も残っている北海道の桃岩荘YHのそれはとても有名だった。当時はYH内での飲酒は不可。つまりそのYHでは、知らない人ばかりが集まってシラフで踊り狂ってたわけだ。今思えばあり得ない。意味不。しかも消灯は10時。どんだけ健全なんだよ。

 

連泊者対象に、ヘルパーがガイドツアーを行ったりスキー教室を開いたりもしていた。ヘルパーってのは住み込みのバイトみたいなもんだ。その宿の従業員ではない。旅好きな若者がその宿を気に入って居ついている、そんな感じ。だからベースとしては旅人。これは本人に確かめたわけではないので定かじゃないけど、彼らのがスキーのインストラクター資格を持っていたかは怪しいところだ。そういうのって珍しくないんだろうか。なんかあったときの傷害保険も掛けてないんじゃいかと想像する。

 

とりあえず素人のボランティアという感じだった。後述すると思うけど、北海道の某YHのスキー教室で、転倒したまま起き上がれずに助けを呼んでいるというのに、ヘルパーの男性たちは、他の綺麗な女子大生たちに夢中で、参加者が一人足りないことに全く気づいていなかった。パウダースノーの大平原に置き去りにされた私は危うく死ぬところだったというのに、そのお詫びの品はヘルパーが自腹で買ってきたYHお手製のショートケーキ1つだけ。ヘラヘラと「さっきはごめんねえ(笑)」とかヌカしてやがる。その後私がどうしたかは、北海道旅行の話が書けるところまで旅行記が進んだら書いてみようと思ってる。

 

・・・ナメやがって。ひとの命を何だと思ってるんだ(怒w)

人生はパラグライダーで大空を舞うがごとく

f:id:samarka:20180703165104p:plain


人生はパラグライダーで空を飛ぶのに似ている。

 

飛ぶためにはまずどこかに登らねばならない。これが子供時代。

 

子供の頃から夢や人生の目標が明確な子達は、周囲の助力や助言をもらいながら、自らの意思で山を登り、方角を定め、山肌を蹴るタイミングを冷静に計って飛び立つのだろう。でもこんな理想的な子供時代を送れる人は多くない。そしてそんな彼らでさえ、頂上にたどり着く山道で何度も何かに躓いて倒れ、泥だらけになったり怪我をしたりする。それでも黙々と山を登り続け、やがては大空に向かって飛び立っていく。しかしながら、その飛行が成功するか失敗に終わるかは、飛んでみないと分からない。人生は無情だ。

 

一方で、登る山を自分で選ばせてもらえない人もいる。自分で選んだはいいものの、それが体力不相応な険しい山だったために、途中で体力が尽きて立ちあがれなくなってしまう人もいる。いい感じで登山道を登っていたはずなのに、突然滑落して大けがをしたり命を落としたりする人もいる。間違った地図を頼りに歩き続け、道に迷って行方不明になる人もいる。その一方で、自分はしっかりと登っていきたいと思っているのに、足を引っ張られて高みまで到達できない人もいる。さらには、そもそも空なんか飛びたくない、山に登りたくない、しんどいことはしたくない、そんな人もいる。

 

子供時代の思いは様々だ。けれど共通して言えるのは、どういう形であれ、ひとはいつか空に向かって飛び立たねばならない時が来るということだ。もし、いつまでも飛び立たず、ただただ時だけが過ぎていく人生を送っていると、その時間の長さがその人の心を絞めにくる。

 

------------------------

 

楽しく飛びたい。安全に飛びたい。綺麗な景色を楽しみたい。この3つの想いが満たされるのなら、できるだけ長く人生という空を飛んでいたいと思う人は多いんじゃないかと思う。中にはアクシデントとスリルがないと退屈だと感じる人もいるだろう。

 

今の今にも自殺したいと願う人は、これらの条件が満たされないまま空を飛んでいる状態だ。不快で恐怖や怒りに満ちた汚い世界に長く留まりたいと思う人はいないもんね。早く降ろして!と叫びたくなるのは当然だと思うよ。誰だって嫌だよ。

 

----------------------------

 

飛び立った後の人生が幸せに着地できるものかどうかは分からない。いい風が吹いている日を選び、万全の準備をして山肌を蹴り、すいーっと運よく快適な風に乗ったと安心していたら、突然気流が乱れて墜落するかもしれない。

 

その逆もある。低いところから飛び立たざるを得ず、こんなんじゃそう遠くまでは飛べないだろうなと思っていたら、パラグライダーを支えてくれる風に恵まれて、運よく結構遠くまで飛べちゃうかもしれない。

 

自分で努力しなくても、誰かがあなたを乗せて空を飛んでくれるかもしれない。言葉はよくないけど他力本願な人生。それでもそのパラグライダーが順調に飛び続けていけるのなら、それはそれでよいのかもしれないね。私はそんな人生は嫌だけども。自分が選んだ山を自分の足で登り、「ここだ!」と思った場所とタイミングで山肌を蹴りたい。自分の力で飛ぶからこそ、自由気ままにに飛んでいられる。そう思うから。

 

-----------------------

 

子供の頃の私は、とにかく高いところから飛びたいと願い続けていた。自分は障害者になってしまった両親の遺伝子を受け継いでいる。同じ疾患で苦しむ可能性は普通の子よりずっと高いはず。それでも、高いところから飛び立てば、地面までの距離が稼げるんじゃないかな。そしたら突然人生の高度が下がってしまっても、即墜落!ってなリスクは下げられるはず。軟着陸できる場所を見つける時間も稼げるだろう。勿論、高いところから一気に墜落してしまったら、その衝撃は大きい。命が助かったとしても、心に残る傷は致命的に深くなることだろう。さっきまで飛んでいた空の高さを思い、天を仰いで号泣するに違いない。でも後悔だけは残らないはずだ。たとえ何が起こったとしても。そう思って私は高い山を登ることにした。

 

どの山をどこまで登り、いつ山肌を蹴ればいいかについて、両親から具体的なアドバイスをもらうことはできなかった。友人達からの助言、本の一節、未熟ながらもこれまでの経験と勘を頼りに山を登り、そして社会に出た。

 

山肌を蹴って30有余年が経った。残念なことではあったけど、子供の頃の懸念通り、私も障害者手帳を持つ身になってしまった。私がこういう身体になったのは遺伝子のせいだ。両親がああいう身体になったのも遺伝子のせいだ。さりとて遺伝子を責めて何も変わりはしない。不運を嘆いて暗闇の中で膝を抱えて泣いているうちに、貴重な人生が終わってしまうかもしれない。それこそが人生最大の不幸だ。空を飛び始めた以上、自分が持っているものを総動員して、幸せに生きていけるよう頑張らなきゃ勿体ない。

 

確かに色々あった。それでも私は今も楽しく空を飛んでいる。自分で選んだ空を飛んでいる。だから幸せでいられるんだと思う。強がりではない。確かに引き継いだ遺伝子には少々問題はあった。そのせいでパラグライダーの高度はぐっと下がってしまったのも事実だ。それでも私は、自分が見たい風景を見て、心地よい風に包まれながら、自分が選んだ空を飛んでいる。

 

どんな空を飛んでもいい。自分が飛びたい空を飛べばいい。人様の人生の妨害さえしなければ。世間があなたをどう評価するかなんて大した問題じゃない。世間なんてものさしほどアテにならないものはないんだから。ものさしは自分の心の中にあればいい。そのものさしの目盛りを信頼できるものにするために、私達はしっかりと自分の頭でものを考えていかねばならないんだと思う。

 

今思えば、人生の選択を迫られる場面において、親の助言や助力に恵まれなかったことは、かえって私を幸せにしたといえるのかもしれない。 

多発性脳海綿状血管腫を持つ私が今も独り旅を続けている理由

f:id:samarka:20180610235030j:plain

 

私が独り旅を始めたのは、これを書いている時点で33年も前のことになる。若い女性のひとり旅=失恋の果ての傷心旅行。そんな風に受け取る風潮が色濃く残っていた時代だ。つまり、女性がひとりで旅をするのは、辛さから逃げるための手段。それ以外に何があるの?・・・こんな感じだったと思っている。

 

おそらく、それ以外の理由で若い娘が独りで海外を目指しているなんて知ったら、口では「すごいね~勇気あるね!」と誉めそやかしていても、陰では「可愛げのない変わった娘だな。そもそも親も非常識だよ。やっぱり親が障害者だと躾がいき届かないんだろうねえ」と思われていたことだろう。というか、実際それに近い事を面と向かって言われたこともある。両親は私のことを必死に育ててきた。勝手な憶測で分かったような顔をしてんじゃねえ。

 

私は失恋などの辛さから逃げるために国境を越えたのではない。バブルに浮かれた大人たちの真似をして、あぶく銭片手にチャラチャラと遊びに行った訳でもない。

 

じゃあなぜお前は独りで何度も国境を越えたんだ?

 

ブログを書くにあたって、その衝動の根っこにあるものを掘り返し、自分の言葉で書き残そうと思った。しかし決してそれは、可哀想なワタシを憐れんで欲しいからではない。世間の評価に翻弄されていた幼少期の自分をブログ上で追体験せずに済むように、そう考えた理由・そう行動した理由の根底にあるものをはっきりさせておきたい。そう思い、これまで数回に分けてここに書いてみた。

 

samarka.hatenablog.com

samarka.hatenablog.com

samarka.hatenablog.com

samarka.hatenablog.com

 

 

今日は、母にまつわるあれこれを書き残してみようと思う。

 

****************************

18歳の私が独り旅を始めた頃の母は、まだ仕事を続けてはいたものの、これまでの無理が祟ってじわじわ腎機能が落ちはじめていた。プレドニンという薬を飲み、定期的に通院することになった。その間も父との軋轢は解消するどころか、ますますヒートアップしていった。更に健康を削り続け、とうとうネフローゼ症候群という難病だという宣告を受けてしまった。薬はその後も増量され、副作用のせいで血圧がどんどん上がっていく。

 

私が27歳になった春のある日。職場に電話が掛かってきた。

 

お母さんが倒れた。脳出血らしい。緊急手術だ。病院に来なさい。

 

幸い手術は成功したと聞かされた。しかしいつまで待っても意識が戻らない。何日待っても。何カ月経っても。

 

母は植物人間になってしまった。

 

どういう仕組みなのかは分からないけど、白目部分が小さな無数のブドウの房のようにぶつぶつと盛り上がり、まぶたが下せない。目が乾かないよう、父はこまめに軟膏を塗った。歯を綺麗に保つよう、こまめにイソジンのような液体で口の中を掃除した。

 

意外だった。「こんな身体になりやがってどうしてくれるんだ!」とさらに母をなじるのではないかと、仕事に行っている間は気が気じゃなかったのに。結局、母の意識が戻り、自分よりも重度の身体障害者となった後も、父は自分が死ぬまでずっと母の介護をせっせとやるようになる。

 

あの喧嘩は何だったんだ?

 

当時の自分にはよく分からなかったが、今思うに、ヘンな話だが、ようやっと母が自分の庇護対象になったことがそうさせたのではなかろうか。自分を食わせていたのが妻、といういらだちから解放され、自分が妻を守る立場なったことで、父は本来の父に戻っていったのかもしれない。

 

そういや脳出血の前、母の身体に全くその前触れがなかったわけではなかった。字が下手になってきた。言葉が話しにくい。右手に力が入りづらい気がする。そう言っていた。それらの症状は、脳出血が起こった部位の機能と合致する。しかしなぜ、脳出血前からそれらの症状が現れていたのだろう。

 

その理由は、母の脳血管疾患に正式な病名がついた時に分かった。

 

病名は、多発性脳海綿状血管腫だと告げられた。血管の中にもろい血管が沢山走っている、と説明する医師もいた。血管の中が台所のスポンジのようになっている、という説明も聞いた。いずれにせよ血管内部にある血管は出血しやすい。

 

出血が微小なら、外側の血管がガードしてくれるから大出血には至らない。その代わり、出血した分だけ外側の血管が膨らんでくる。その膨らみが血管近くの神経を圧迫し、部位相応の身体症状がでてくるのだという。 

 

この血管腫は単発でその人にだけ現れる場合もあるけれど、遺伝によって起こることもある。遺伝性のものは「家族性多発性脳海綿状血管腫」と呼ばれ、年間出血率が高い。16%を越えるというデータもある。しかも優性遺伝するそうだ。となると、片親がその遺伝子を持っているだけで、計算上7割弱の確率で子供に遺伝する。

 

実は、母が大出血を起こす前に、弟の脳内にもその血管腫が存在することが分かっていた。二度倒れた。場所が脳の深部にあるため手術はできず、さりとて放置すると出血すればほぼ確実に死ぬ部位だという。

 

ガンマナイフという放射線をあてて、その血管を焼きつぶす治療法がある。どんな副作用が出るか分からない治療法だと言われたが、命に換えられないので一か八かに賭けて放射線を脳内に照射した。

 

脳海綿状血管腫を持っていると最初に診断されたのが弟。その次が母。つまり、この血管腫は母から弟への遺伝。出血率が16%を越えるという医師もいる家族性の血管腫。ヤバい方の血管腫

 

その当時の私にはそれらしき症状はなかったけれど、脳裏に浮かんでくるのは、数年間寝たきりでまぶたも閉じられない自分。意識が戻ったら言葉と手足の自由を奪われている自分。なんせ遺伝確率が約7割だ。私のこめかみには拳銃が突き付けられている。ロシアンルーレット以上の確率で弾の入った拳銃が。

 

人生設計をやりなおさなければならない。冷静になれ。どう生きたらいいかを決めるのは自分しかいないんだから。誰だってそうなんだから。障害者になる日が来ても自立して生きていけるために何をしたらいいんだ?そして、そうなった時に「なんであの時にこれをやっておかなかったんだ!」という後悔を少なくするために、元気な私は何をやっておけばいいんだ?

 

明確な答えを持たないまま時が経った。

 

母の意識が戻らない時期に私は結婚した。その頃の私もまだ元気だったけれど、30歳の時に念のため脳ドッグを受け、正常だという診断を受けた。

 

私は大丈夫か。そうか。大丈夫か。

 

ところが、そう安心していられたのは5年間だけだった。字がどんどんヘタになっていく。お辞儀をしたら右に倒れそうになる。頭の中に言葉は浮かんでいるのに、それが口に出せない。そんなことが増えてきた。

 

遺伝子の野郎。お前、容赦ないな。

 

脳外科でMRIを撮影してもらったら、白い粒のようなものが6か所確認できた。中には周りが黒いものもある。このことを知らずに母が亡くなったことは不幸中の幸いだった。自分の遺伝子のせいで私までもが同じ病気になったのだ、と自分を責めずに済んだわけだから。

 

医師が言った。

 

多発性脳海綿状血管腫ですね。既に微小出血を起こしているものもあります。症状の原因はおそらくこいつでしょう。とにかく血圧の管理だけはしっかりやって下さい。血管腫からの刺激を緩和するために薬を出します。肝臓を壊す副作用がありますが、命の方が大切です。飲み続けて下さい。

 

肝臓の寿命を延ばすため、自主的に酒はぴったりと断った。そして、身体が動かなくなる前に絶対にやっておきたいことは何だ?と自問自答した。真っ先に浮かんだのは旅だった。

 

 

私は二種類の障害者手帳を持っている。だからこそ旅をする。万が一の時に過去を嘆かないように。

 

世間的には、いい歳をして家庭も顧みず好き勝手をしている悪妻。でも好きなように言わせておけばいい。世間ほど無責任な審判はいない。これまで書いてきた生い立ちの中で、嫌というほど見せつけられた悲しい現実だ。

 

私が何かを思いとどまるとすれば、夫が強く強く引きとめた時だけだ。この人を深く悲しませることは絶対にやらないと決めている。

 

この間は台湾にふらっと独りで行ってきた。いずれこのブログに旅行記を書こうと思っている。

 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自分らしい暮らしへ
にほんブログ村

障害者による家庭内暴力の果てに残ったもの

f:id:samarka:20180523172454j:plain

お気の毒な家庭と思われていたであろう我が家も、私が小学生の頃まではそれなりに平穏で居心地も悪くなかった。そんな家庭内バランスが崩れ始めたのは、私が中学生になってすぐのことだ。

 

その頃の母は正社員の仕事を得て我が家の大黒柱になっていた。詳しい事情は書かないでおくけど、この頃以降の父は精神的に非常に不安定になっていく。私から見ても「これはどう見ても理不尽な言いがかりだぞ」と思うようなことで延々と母に罵声を浴びせ、時には包丁を振り回し、1日おきに母は寝ることを許されなくなっていた。

 

母はやり返さなかった。それがよかったのか悪かったのかは分からない。しかしながら、やり返したら火に油を注ぐことは明白だったので、「絶対に割って入ってくるな。止めに入ったら危ない」と私と弟を母は諭していた。本当にそれでいいのか。このままでは母は病気になるか怪我をさせられるのではないか。止めに入りたい衝動を抑えつつも、弟と二人で彼らの声をずっと聞き続けていた。

 

ある日の夜、寝ている私を母が起こしに来た。顔が血だらけだ。

 

「危ない。逃げなさい」

 

もうこれ以上はダメだ。逃げてる場合じゃない。止めるなり警察を呼ぶなりしないと命が危ない。母の言いつけを破り、お母さんを殺したいの?と父に声を掛けた。

 

それがまずかった。それ以降、怒りの矛先は私にも向くことになった。既に私は父の身長を追い越している。それもよくなかったのかもしれない。自分より大きい娘。自分を食わせている妻。父のプライドの高さが家族を敵認定させてしまった。

 

色々あった。

 

けれど、だからこそ私は勉強で人生の一発逆転を狙わないといけない、という気持を強固にした。家庭環境が悪かったからグレた、というのはよくあるケースだ。しかしそんなことをしても何の意味もない。自分の将来を大切にしたいなら、環境のせいにして堕ちていってはいけない。私はそう思った。

 

高校に合格した時のことをよく覚えている。あんな風になってしまった父でも、私の高校合格は誇らしかったようだ。丸くて大きなケーキを買ってきた。「お誕生日おめでとう」と書くかわりに、私が合格した高校の名前が大きく書かれたケーキだった。

 

私は当惑した。なんでこんなことをするんだろう。とりあえずこのケーキをどんな気持ちで食べたらいいんだ?父は本当に私の成功を嬉しいと思っているんだろうか。また手のひらを返したように、些細な言いがかりをつけて家の中を無茶苦茶にするのではないか。

 

けれど目の前の父は本当に嬉しそうだった。その笑顔を信じよう。とりあえずあの高校に合格したことで、私は夢を一つかなえたんだし。あの時のケーキほど、口にするのに根性が必要だったケーキはない。味は完全に忘れてしまった。ただただ怖かった。

 

父はその後、ことあるごとに「うちの娘はあの高校に通っている」、大学生になった時には「うちの娘はあの大学に通っている」と、聞かれてもいないのに私が通う学校の名前を口にするようになっていた。

 

私にはそれが腹立たしかった。許せないと思った。

 

お父さん、一人称で自分を語れ。娘の学歴はあなたの学歴ではない。私はあなたの名刺じゃない。

 

今なら分かる。こんな身体だからといって馬鹿にするんじゃないぞ、その証拠にうちの娘はこんなに賢いんだ。そう相手を牽制したかったんじゃないかと。だからそれは腹を立てるべきことではなく、むしろ悲しむべきことだったんじゃないかと。

 

身体が弱い弟にではなく、元気で頑丈な私に自分の将来の夢を託したんだろう。思春期の私にはそこまで読みとおす心の余裕はなかったけれど。

 

時が経ち、私は大学生になっていた。独り旅に出て世間を別の角度から見てみたいという、高校生の頃に決めていた夢を叶えようと思った。しかしきっと反対されるだろう。また私のことをなじるだろう。

 

相当の覚悟を決めて「京都に3日、独りで行ってみたいんやけど」と切り出した。

 

ところがだ。全く顔色が変わらなかった訳ではないけれど、「そうか。行ってきたらいい」と、あっさりと承諾を得てしまった。

 

なぜだ?「若い娘が何を言ってるんだ!」とか言わんのか?どうしたんだ?

 

やっと旅に出られるな、という安堵感の中に、どうして私に旅をさせようと思ったのかという疑問がぐるぐる渦を巻いていた。

 

けれど理由は聞かないでおいた。分からないなりにも何となく想像がついたからだ。自分の意思と自由な身体でいずれは国境を超えていく娘の姿を通じて、父自身も夢を見たかったのかもしれない。穿ち過ぎだろうか。

 

その後の父は、一度だけ飛騨高山に車で一泊旅行に出掛けた。ツアーではない。同行者もいない。宿や行程を決めるところから全部独りでやった。そして「ちょっと行ってくるわ」とあっさり言って、楽しそうに車に乗って旅に出てしまった。私と同じだな、と心の中で少し笑った。よく障害者独りで泊めてくれる宿を見つけられたな、というか、障害があることを隠して予約をとったんだろうか。

 

今のようにネットがないから、宿の情報はガイドブックの小さな写真が頼りだ。段差の高さ、手摺の有無、そんな情報は普通のガイドブックに載ってたりはしない。とりあえず無事に帰宅した父の土産は湯の花。その粉末を溶かせば温泉と同じ泉質になるというやつだった。

 

父の独り旅の記念として、今も少しだけ手元に残してある。これが入ってた箱を手渡した時の誇らしげな顔、今でもはっきり覚えている。達成感だろうか。他人の手を借りずに独り旅ができた喜びだろうか。帰宅後も、自分で作成した旅程や支出を書いたノートを嬉しそうに何度も見返していた。

 

お父さん、独り旅ってええもんやろ?自分の意思で自分の行きたいところに行って、好きなことを思う存分時間を気にせずやってみるのって、おもろいやろ?また行ったらええねんお父さんも。

 

けれどそれが父の最初で最後の独り旅になってしまった。若い時から沢山の薬を飲み続け、副作用で色々と臓器をやられていた父は、その後どんどん病名が増えていき、命の炎は少しずつ小さくなり、やがてこの世からひっそりと消えていった。本当にあっけない最期だった。

 

お父さん。飛騨高山行きの独り旅、楽しかったか?偉そうに言ったらまた怒りだすかもしれんけど、楽しいことこそ、他人の予定や気分なんか気にせず、自分の心が満たされるまでマイペースでやるのが一番ええねん。だからひとりでやるのがベスト。

 

独り旅は身体が元気だからこそできる旅。だからそれは最高に贅沢な旅なんだよ。たとえそれが貧乏旅行だったとしてもね。

 

samarka.hatenablog.com