●心の中の森を行く●

生きた証を残したい。私が言葉を忘れる前に

親が子供に遺すべきは「生き様」という記憶で十分だ

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我が家には、とあるドキュメンタリー番組を録音したカセットテープと写真の束が残っている。当時は一般家庭にビデオデッキなどはなく、番組を保存するためには、カセットテープで音声を録音し、カメラでテレビ画面の映像を撮影するしかなかったのだ。

 

障害者となった夫を支える妻、障害者となった父を見つめる子供たち。そんな家族の物語。テープを再生して聞こえてくるのは、私の父の声、母の声、そして8歳の時の私の声だ。

 

30分番組が映し出したものは、父の生涯のごくごくわずかな断片にすぎない。半身不随の障害者として人生の3分の2を生きることになってしまった男には、何時間かけても語り尽くせない想いが心の奥に堆積していたはずだ。

 

名前も残さず金も残さず。ほとんどの人間がそうやって死んでいくものだ。母はもう死んでいる。母の親兄弟も父の親兄弟も。だから私と弟が死んでしまったら父の暮らしぶりを知る人間は一人もいなくなる。病院のカルテだって保存期間は5年。だから、あれだけ通い続けた病院にすら父の名前はもう残っていない。

 

昨日、何故私が独りで海外に出たいと思うようになったのかを書いているうちに、父を通して見続けていた世間の影響がいかに大きかったかを改めて感じた。だから具体的な旅行記を綴りだす前に、もう少し父のことを書き残しておきたいと思う。

 

*********************

 

「健康優良児表彰を記念して」と裏書きされた写真が残っている。表面に写っていたのは赤ん坊の頃の父だ。皮肉なものだ。その20年数年後に最初の癲癇発作を起こし、脳血管奇形が発見され、手術で除去したものの半身不随の障害が残る。彼の人生の3分の2は障害者としての人生だ。全然健康優良じゃない。

 

番組のナレーションによると、私が生まれたのは最初の発作から3年後だったらしい。その発作の原因が先天性の脳血管奇形によるもので、いずれ大出血を起こして命を落とす可能性が高いことが分かったのは、母がお産の為に故郷に帰る直前だったと聞く。子供が無事に産まれたとしても、その後の生活の見通しは全く不明。よくぞ気丈に私を産んでくれたものだと今も感謝している。

 

その後も父はしばしば癲癇発作を起こしていたようだ。親戚も母も昔のことはあまり語らなかったけれど、「あなたのそばでお父さんが硬直発作を起こした時、赤ん坊だったあなたはギャン泣きしてたのよ」ということは教えてもらった。病気に関して私自身が覚えているのは、毎食後に大量に薬を飲んでいた父の姿だ。「抗痙攣剤」と呼んでいた。要するに癲癇薬のことだ。

 

しかし発作を起こさない時の父は至って健康で快活だった。アグレッシブにバリバリと仕事をするのが好きだったので、職場ではいわゆる出世頭だったようだ。

 

散歩の後はよく「回らない寿司屋」(当時は回転寿司というリーズナブルな寿司屋はなかった)で、私にたらふく寿司を食べさせてくれた。「お嬢さんに次は何を握らせてもらいましょうか?」と言うや否や、私は「はまち!」とオーダーを入れて笑われていた。「この子、安いもんばっかり頼んでカッコ悪い(笑)」見栄もあったのかもしれないけれど、とりあえずそういうことができるだけのお金を父は稼いでいたということだと思う。

 

数年間の時が流れる。いよいよ手術を明日に控えた冬のとある日。父は病院の屋上の展望室に私と弟を呼んだ。

 

「お父さんの左手は明日からもう動かなくなる。左足で踏ん張ることもできなくなる。だから、お父さんの左腕にぶら下がっておきなさい。これが最後だ」

 

そう言って、ポパイのように左手を曲げて私たちの方を向いて笑った。3歳の弟には何が何だか分からなかったと思う。もう覚えてもいないんじゃなかろうか。でも当時6歳だった私の脳裏には、健常者から障害者になっていく分岐点が明確に刻み込まれている。父は笑っているけれど、これは笑えるような状況じゃない。きっと心の中で大泣きしているに違いない。だから私は泣いちゃダメだ。同じように笑って、父の中の美しい思い出として残っていなければいけない。きゃっきゃと笑ってぶらーんとぶら下がりながら、私は父の筋肉の硬さをしっかりと手のひらに沁み込ませていた。

 

父はプライドの高い人だった。別人になった己の身体を何とかしようと、入院中はもとより、退院して家にいるようになっても、兄弟に作ってもらった滑車つきのリハビリ器具などを使って、ずーっと手を動かしたり足を動かしたりしていたのを覚えている。

 

さらに時が経つ。「この職業訓練校で一番バイタリティにあふれている障害者を紹介してくれ」という連絡が放送局から来たようだ。その対象に選ばれたのが父だった。右手しか動かない人間にとって、そろばんで計算をするのはとても大変な作業だっただろう。余計な時間も掛かったはずだ。それでも3級の試験には合格できた。そんなところもテレビ的には好印象だったようだ。

 

ところが、それだけ頑張っても就職への壁は高くそして厚かった。「満員電車にも乗れますか?」と職業安定所の職員が父に問いかける音声が残っている。「はい大丈夫です」と父は答えたが、当然そんなのは無理だ。しばらく無職の時期を経て、やっと見つかったのはパチンコ屋の景品交換所で景品を現金に換える仕事だった。小さな部屋だった。時々私も中に入って作業の手伝いをしたが、場所柄仕方がないんだろうけど、景品をがつーん!と台にぶつけて暴言を吐く客も時々いた。かつて「同期の中では一番の出世頭だよね」と言われた男にとって、これは相当堪えたはずだ。

 

詳しい理由は分からないが、その仕事は長くは続かなかった。台交換で不要になったパチンコ台を、私たち子供の為に1つ貰って帰ってきた。以来、父に仕事の話がくることはなかった。

 

ある日学校から家に帰ったら、わら半紙の上に字にならない字で書かれた置き手紙があるのに気づいた。父の利き手は左だったので、動く右手で書く文字は非常に判読し辛い。それでもはっきり読みとれた。今でもはっきり覚えている。

 

愛する妻と子供たちへ

幸薄く生まれた私には、君たちを幸せにする自信がない。今まで本当にありがとう。

 

やがて、母がパートから帰ってきた。父は障害者でも乗れるように改造した愛車に乗ってどこかに行ってしまった。まったく行き先にアテがない。

 

私は、何かあった時の為にと、留守番役として自宅待機を命じられた。どれくらい時間が経ったかよく覚えていない。父は悄然とした姿で家に戻ってきた。

 

こんなことが日常茶飯に起こっていた。今思えば、様々な減免制度の恩恵を受けて金銭的な負担は最小限になっていたのだから、父はそこまで自分を追い詰めなくてもよかったんだ。けれども「お前はみじめな障害者だ」という世間という名の分厚い霧に包まれて、自分を責めること以外の選択肢を見つけられずにいたんだと思う。

 

色んな事情を知っている近所の人達や同級生は、決して私をいじめはしなかった。障害者や低所得者が住む団地に引っ越したことが大きいのかもしれないし、私がある程度大きくなり、自分の言葉で自分のことを話せるようになったこともあるのかもしれない。

 

一度だけ、父の歩き方を真似るどこの誰だか知らない男子に出くわしたことがある。私の何が気に入らなかったのかは分からないが、これで私が泣くと思ったのかもしれない。

 

ナメてんじゃねえよ。私がこれまで見てきたものはそんな甘っちょろいもんじゃねえんだよ。でも、自分がやっていることがどれだけ人の心を傷つける行為なのかは、しっかり教えてやらんといかんなと思った。傲慢かもしれんなとは思いつつも。

 

喧嘩がよくないのは分かっていた。長々とやってたら人目につく。誤解も生む。幸い私は身体が大きかったので、小柄なそいつの肩を掴んで、平たい地面の上に寝転がせるように倒した。起き上がられると厄介なので、太ももの上に馬乗りになり、肩を押さえつけて一発だけ思いっきり顔を殴った。そしてそいつの目を見おろしながら言った。

 

「もう一回あんなことをやったら、どうなるか分かるな?障害者は一生懸命生きてるねん。笑いのネタになるために生きてるんと違うねん。分かったら『ごめんなさい』て言え」

 

先々の復讐を封じるために、きっちりとビビらしておかないといけない。けれど私は、前回の記事に書いた事情で勉強を頑張っていたおかげで、上級生の宿題のお手伝いができる学力が身についていた。「こいつを怒らせたらまずいよな」というにいちゃんも、「なあ、宿題教えてくれや」とよく私に声をかけていた。こんなことを書くのはよくないとは思うけど、その時の私の頭の中では「この界隈であのにいちゃんを怒らせたらタダでは済まない。だからこの喧嘩で私が仕返しをされる可能性はまずない」という計算があった。その男子は大泣きで走り去った。

 

やられたらやり返す。こんな手荒なことをしたのはこの一度きりだ。父は必死に人生と戦っている。笑いの種にするのは私が許さん。

 

将来必ず独りで海外に出ようと決めた女子高生の胸の内

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「海外での独り旅を通じて自分がどんな人間なのか知りたいだと?なぜそんな危険なことを?親御さんはなぜ止めないんだ。非常識じゃないか。娘が可愛くないのか?」

 

「別に海外でなくても、自分と向き合える場所なんていくらでもあるでしょうに。友達とわいわい楽しく旅に行きたいっていうならまだしも。あなた大袈裟なのよ。もっと肩の力を抜いて生きてかないと面白くないわよ」

 

こんな風に思った人は少なくないだろうな。ひとつ前の記事を書きながらそんなことを思っていた。

 

今日は、なんでこんな修行僧みたいな旅をしようと思ったのかを、少しフェイクを交えて書き残しておこうと思う。

 

******************

私が6歳だった冬のことだ。脳血管の奇形部位を切除するために、父は手術を受けることになった。放置すれば大出血を起こしていつか死ぬ。手術をすればそのリスクはなくなるだろうが、確実に半身不随の障害者になる。それでも父は生きることを優先して手術を受けた。

 

その後懸命にリハビリを続けたけれど、左の手足が機能を取り戻す日はやってこなかった。身体障害者手帳には2級と書かれていた。身体障害の等級は、1級が一番重い。

 

足を固定する特別な靴を履いても、父はよたよたとしか歩けない。ひとりでの外出は危ないので、私はよく父と一緒に外を歩いていた。

 

ある日、道の向こう側から大人の男が数人歩いてきた。こっちをみて不愉快な笑い方をしている。嫌な予感はした。でも一瞬のことでどうすることもできなかった。押し倒されて地面に倒れている父は、そいつらの笑い声と罵声を背中で聞いていた。

 

これが世間か。

 

父が障害者になってしまったことは、よく近所の噂の種になっていた。信じられないことに、手足の麻痺は感染するとまことしやかに言う人もいた。昼間から酒を飲んでフラフラしてる人から「お前のお父ちゃん、アホやから頭の手術したんやろ?w アホは遺伝するからなあ。将来お前もアホになるでえー!」と言われることもあった。一番堪えたのは、今まで仲良くしていた友達のお母さんたちが「もううちの子と遊ばないでね。感染させられたらたまったもんじゃないからね」と大声で私を追い払ったことだ。

 

これが世間か。

 

私がどんな人間なのかを分かってもらう前に、この子は可哀想な家の子、近寄らない方がいい子、将来アホになる子、というレッテルを貼りにくる。世間は好き勝手に私が何者なのかを決めつけにくる。

 

そんなレッテルを剥がしたかった。小学校に入学したらテストがある。いい点数を取り続ければ、私も父もアホ扱いされずに済むだろう。文字を覚えるのが早かった私は勉強が苦にならなかったので、学校の勉強をしっかりやるようにした。結果は点数となって誰にでもわかる形で証明される。私は勉強ができるいい子。私を見る周囲の大人の目ががらっと変わった。手のひらを返すというのはこういうことを言うんだろうな、と心の中で悲しく笑った。7歳だった夏のことだ。

 

これが世間だ。

 

父は職業訓練校に通ったけど、折からの不況で仕事は全く見つからなかった。生活費は障害年金。私が学校に払ってたのは修学旅行の積立金だけ。福祉住宅は家賃月額8100円。色んな社会福祉制度のお世話になりながら私は高校生になった。レッテル剥がし目的の勉強のお陰で、私は学区トップの進学校に通うことができた。

 

しかしお金の問題は簡単には解決できない。私の下には体の弱い弟がいる。学校を休みがちだったから勉強ができない。こいつの進学には金が掛かるだろう。なけなしの貯金は弟の将来の為に残しておかねばならない。

 

私の高校で四年制大学に進学しない人はほぼゼロだ。公立高校ではあったけれど、医者や大企業の重役を親に持つ経済的に恵まれた子達が多かった。私もクラスメートと同じように大学に行き、自分の人生を自分の手で切り開いていきたい。彼らのように親の経済力や社会的地位の高さに頼ることはできないけれど、勉強ができれば奨学金が貰える。国立大学に行ける。運が良ければ学費免除にもなる。私が成り上がる手段はこれしかない。そう思って私はさらに真剣に勉強した。

 

実力テストが終わるごとに、成績が職員室前の廊下に張り出される。各教科・全教科、それぞれ上位20名の名前が明記されている。私はそこの常連だった。

 

私は人生の一発逆転を賭けて勉強している。ただそれだけだ。でも私の家庭の事情なんて、学校の大多数の子は知る由もない。女の癖に生意気だから潰そうぜ。そんな男子生徒のグループには手を焼いた。

 

世間というのは色々と厄介だ。

 

色んな色眼鏡で人を覗き、時には嘲笑し、時には気持ち悪いほど持ち上げ、時には憎しみをぶつけてくる。目まぐるしく変わる世間の評価。私は一体何者なんだろう。本当の自分はどういう人間なんだろう。10代の私は常にそんな疑問を自分にぶつけ続けていた。

 

親のことや家計の問題など全てをとっぱらうことができる場所はどこだ。もしそんな場所が見つかったら、自分が本当はどういう人間で、何をして生きていけば幸せになれそうな人間なのかが分かるんじゃないか。

 

自分が何者なのかを決めるのは自分だ。世間という名のモンスターに私を裁く権利はない。世間に負けない自分になりたい。これまで私をころがし続けてきた日本の世間・日本の常識というのは、本当に本当に正しいものなんだろうか。それを知るためには、一度は日本の外に出なければならない。

 

大学に合格した。幸い学費は免除され、返還不要の奨学金をいくつも頂いた。家庭教師のバイトをいくつか紹介してもらい、学費や生活費にあてがいつつ、私は少しずつ旅費を貯め始めた。

 

時代はバブル。大学生の家庭教師なのに、1時間で1万円も貰える時代だった。私が旅に出られたのは時代の後押しが大きい。私は時代に恵まれた。

 

今でも私は独りで旅をする。夫は諸事情を知っているので全く引き留めない。行けるうちに心おきなく行ったらいいよ。ただそういうだけ。私は夫にも恵まれた。ありがたいことだ。

 

「世間」というものは硬い岩盤のようなものではなく、視界を遮る濃密な霧のようなものだ。近くを見るのがやっと。迂闊に歩き続けたら何かと正面衝突を起こしかねない。じっとそこに立ちすくむ。見えるのは白い霧の壁だけ。それが世界のすべてのように見えてくる。

 

しかし霧の正体は非常に細かな水滴の集合体に過ぎない。白い壁に手を伸ばしてみても何の手ごたえもない。かき分ける動作をすれば、その部分の「壁」はふわっと容易に移動する。慎重に目を凝らし足元の安全を確認し、そろりそろりと歩き続けていけばいい。段々視界が明るくなるのが分かるだろう。そして完全に「霧」を抜けた時、散々自分を悩ませ続けていたものの正体を知る。

 

にっこり笑えばいい。そして、摺り足でそろりそろりと歩くのを止めて、元気よく前を向いて歩きだせばいい。

 

人生、捨てたもんじゃない。光ある方向に進め。 

独り旅の「独」は「独立」の「独」

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十代後半から二十代半ばの数年間は、人生の方向性を決定づけるほぼ最後の時期だ。高校生の頃の私はそう思っていた。だから、時間とお金を自分の裁量で使えるようになる時期(大学生)がきたら、絶対に海外独り旅をしようと決めていた。

 

地縁も知り合いも皆無な土地で、泥臭くもがきながら試行錯誤することによって、今の自分の素(す)の力を猛烈に試したかった。その理由は、次回以降の記事で少しずつ書いてみようと思ってる。

 

頼りになるのは、コミュニケーション能力や語学力もさることながら、自分の人間性と度胸。コネや家の裕福さなどが一切通用しない旅をすることで自分の値打ちが分かる。そう信じていた。

 

私が頻繁に旅をしていたのはバブル期を挟んだ数年間。当然ネットなんてない。家でFaxの送受信ができるようになったのですらもっと後のことだ。日本ですらそうだった。国によっては国際電話を掛けられる場所すら見つからなかった。やっと家に電話を掛けることができた!と思ったら、日本からの声が数秒遅れで聞こえてくる。昔の衛星中継ってこんなだったよね。こういう面倒かつ非効率で混沌とした国ほど自分のサバイバル能力を試される。自分がどんな人間なのかが見えてきそう。面白い。これは面白いぞ。私はわくわくした。

 

というかね。自分がどんな人間なのかを知らなければ、これからも続く長い人生を楽しく生きていくことはできんよな、と思ったのよ。

 

「あなたはどうしたいのか」を問われる場面は年齢が上がれば上がるほど増えてくる。「自分」を知っている人ならば、自分を幸せにするものや環境を選びとることができ、その人なりの幸せをつかみとっていくことだろう。時と共にその選択が自分に合わなくなったら、またその時の自分にとって最善なものを選び取ることができよう。

 

その一方で「自分」を把握できていない人は、「普通はこうする」「世間の目というものがある」「友達に羨ましがって欲しいな」などと、他人基準で幸せを選んではいないだろうか。それは本当にあなたを幸せにしてくれるだろうか。世間というものは移り気で無責任なものだ。これからもずっと、世間はあなたを幸せな人認定し続けてくれるだろうか。

 

だから、「他人がどう思おうと、自分はこれが幸せなんだ」と言いきれる人生を送りたいなら、人は自分というものにしっかりと向き合って自分を知らねばならない。そして人生の重要な決断を他人に委ねてはいけない。

 

親の顔に泥を塗るなと言われようと、私は私の人生を自分で背負える人になりたいと思った。そもそも、親の顔に泥を塗らない娘ってのはどーいう娘なんだ?当時の「常識」とされていたものを書いてみるなら、高卒か短大卒。四年制大学に行くなら私立のお嬢様女子大まで。え?四年制の国立大学!?ダメダメ、男が怖がって貰い手がなくなる。生け花みたいな花嫁修業的な習い事をして可愛い服を着て、「ぜひお宅のお嬢さんをうちの嫁に!」と言わせたら、娘を育てた親としては成功(笑)だったんだろうかね。うちの親、子育て大失敗じゃんw

 

周りからはさぞ変人娘だと思われてたことだろう。でも、人の生き方にとやかく的外れな助言をする人ほど、いざとなった時にはしらんぷりするものだ。子供の頃からそういう人達を沢山見てきた。だから相手にしなくていい。言わせるだけ言わせておいて、にっこりとあしらっとけばいいの。

 

不思議に思う方もおられるかもしれないけれど、私の親は全く反対しなかった。彼らは私のことをよく分かっていたからだと思う。

 

ただ私の方も、いきなり海外にぽーん!とでていくような真似はしなかった。まずは隣の都道府県である京都に3日。次は信州、東京、北海道、と少しずつ距離と日程を伸ばして「実績」を積んでいった。親の心配は少しでも和らげてあげなければならない。

 

最初のターゲットは、改革開放路線を打ち出し始めた頃の中国本土。鄧小平が指揮をとっていた頃だ。共産圏で今、何が変わりつつあるのか。それを自分の肌感覚で知りたくなったからだ。なので、大学で第二外国語をもう一度とりなおした。既にドイツ語で単位修得は終わってたんだけど、下級生に交じって中国語の授業を履修し、独特の発音の仕方を徹底的に学んだ。たとえすげーカタコトであったとしても、正しい発音で話すことの重要性は、その後の独り旅で何度も経験する。

 

しっかりした文章を話せるようになっても、発音が悪すぎたら全然伝わらないからね。逆に、情けないほど簡単な単語しか知らなくても、それがきちんと伝わればコミュニケーションが成り立ち、それを繰り返しているうちに耳が慣れ(これも正しい音を知っているからだ)、相手に質問ができるようになったら、さらに新しい知識を現地で学ぶことができる。発音の訓練、とっても大事。

 

国境を超える時に日本から持ち出すのは、パスポート・お金・最小限の衣類と洗面道具類。あとは現地調達。どうやらこの国では手にはいらなさそうだなと思われるものがある場合には、それもカバンに入れておいた。

 

世の多くの同世代女性が、おかしな扇子を振って高いところでパンツ見せながら踊ってる時、首のところが半分のびちゃってるような古いTシャツを着て、小ぶりのナップザックを肩にかけて私は歩いていた。

 

「ひとり旅」は「一人旅」ではなく、敢えて「独り旅」と書いていきたい。

 

ひとりで旅している人のことを、同行者がいない孤独な人と考える人もいるだろう。しかしそれは違う。

 

独り旅の「独」は孤独の「独」ではない。独立の「独」だと私は言い切りたい。 

 

「お母さんありがとう」と伝えるべき日がもう一日あるよ

今週のお題「おかあさん」

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これから打ちこもうとしているのは私の娘が書いた文章です。

 

タイトルは「お誕生日」。

 

娘は17歳でこの世を去りました。

 

つたない文章ですが、そのまま転記したいと思います。パソコンの中に残っていた文章です。

 

*************

大人のひとの中には、誕生日が来るたびに「また一つ年をとってしまった」「憂鬱だ」という人がいるよね。

 

私には大人のひとの気持ちは分からないけど、少なくとも前の誕生日からの1年間、あなたは死なずに生きてきたということだよ。だから、何歳になるお誕生日でも「おめでとう」と言っていい日だと思うんだ。

 

もしそんな風には思えない、というのなら、「お母さんありがとう」と心の中でつぶやく日にしたらどうだろう?

 

「お母さんありがとう」をちゃんと言ったほうがいい日は母の日だけじゃない。というか、むしろ母の日以上に、あなたのお誕生日に言う「お母さんありがとう」の方が大事かもしれない。だってその日のお母さんは、あなたのためにすごく痛い思いをしたはずだから。自分の命と引き換えになる覚悟したお母さんもいると思うから。

 

でもね、「どうして自分を生んだんだ!」と、お母さんを恨んでいる人もいるかもしれないよね。そういう人は、例えばこう考えてみたらどうかな?

 

一部の例外を除けばさ、ある程度の年齢になったら、自分の人生は自分の努力で変えられると思うし、変えようとすべきだと思うんだ。ちょっとずつでもいいから。「やっぱり生まれてきてよかったな」って思える人生に変えていったらどうかな?

 

私のように病気を持っていて、「人生を楽しく過ごしてないのにおめでとうっていわれても・・・」という人もいると思う。気持ち、とてもよく分かる。確かに元気な人と比べたら、手持ちのカードは多くないもんね。でも、どれだけ悲しんだり恨んだりしても、私たちは自分の身体で生きていくしかない。与えられたものを最大限に生かして、如何に楽しみを見つけて生きてくか。それは一種の知的なゲームだと思うんだ。

 

一命はとりとめたものの、身体の自由を奪われたおじさんがいてね。「どうせワシは『お釣り』で生きてる人生だから」と吐き捨てるように言ってたのね。『お釣り』というのは、死に損なった人生という意味だと思う。「若いくせに生意気な!」と怒られたら怖いから黙ってたけど、おじさん、『お釣り』なんだから賢いお買い物をしないといけないよ。お釣りで買えるものは少ないからね。

 

 お誕生日を迎えた方。今あなたの境遇がどうであったとしても、お誕生日を悲しまないでください。そして、次のお誕生日を迎えた時に、「去年よりも何がよくなったかな」と、しっかり自分を振り返る、そんな節目だと思ってみてはどうでしょう?

 

 もし私に、白髪が生えたりシミやシワができる年齢が訪れたら。「お母さんありがとう。生きてて楽しいよ」と笑って言える、そんな年齢の重ね方をしていけたらいいな。

 

お母さん、ありがとう。

 

母の日だけじゃなく、誕生日にも伝えよう。素敵な言葉だよ。

 

お母さん、ありがとう。 

ひとりが楽しくて何が悪いんだろう

今週のお題「自己紹介」

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人はひとりでは生きられない。確かにそれは事実だと思う。身の回りのことを全部人の手に委ねて生きている乳幼児の頃は勿論のこと、学生時代・社会人生活・定年後の暮らし、そしてこの世を去る瞬間まで、我々は他人と何らかのかかわり合いを持って暮らしている。

 

しかし人とのかかわり合いが、往々にして不快感の源になることも事実だ。しかも避けられないものであればあるほど、そこから生じる苦痛は益々強くなる。

 

学生時代は様々な「班行動」を強制される。体育の授業・文化祭・修学旅行などなど、とにかく気が合う合わないにかかわらず、どこかに所属しておかないと学校生活に大変支障をきたす。通知表に「協調性がない」などと書かれ、教師からの覚えも好ましからず、ひいては内申書に何らかの悪影響があるのではないかとひそかに怯え、仕方なく明るくて友達の多い子に見せようと頑張って疲れてしまったりすることはないだろうか。

 

社会人になったらなおのことだ。会社組織に属せば否応なく、同僚・上司・部下・取引先・顧客といった多種多様な立場の人達と、良好な人間関係の構築が求められる。組織を嫌ってフリーランスになっても同様だ。いや、組織という後ろ盾がない分、仕事関係の人間とよりしっかりした関係を築いておかないと仕事が回ってこない。学生だったころと比べ、このフェーズでの人間関係は重要だ。どういう形であれ、年金や生活保護その他の不労所得を得ている場合などを除けば、生活費を稼がなければ生きていくことが非常に難しい。

 

子育てをする時も似たようなものだ。子供が生まれる前のプレママ期からそれは始まる。プレママ教室で同じ場所に集まっている妊婦は、数ヵ月後に同じ歳の子供を持つ近所の知り合い、つまり将来のママ友候補。ママ友との人間関係は、大体は子供が小学校を卒業するころまで続くことが多いようだ。勿論、ママ友がいなくても何とかなかったりもするけれど、アンオフィシャルな情報が届きにくかったりするのは事実ではなかろうか。

 

その他にも、自治会という名の地域活動、習い事、ボランティア・・枚挙にいとまがないほど、我々人間は多くの他人と付き合うことで生活することになる。

 

これだけ雑多な人間関係の輪の中で円滑な人間関係を構築する為には、当然、気が合わない人とムリに付き合わねばいけないことも多い。勿論そういう活動の中から、真の友人といえる人と出会うことも少なからずある。そこは否定しない。それでもやはり、どこかの組織に属す以上、苦手な人との付き合いをゼロにすることはできない。そして、やりたくないことを引きうけるハメになることも少なくない。というか、そういうことの方が圧倒的に多い。そんな気がする。

 

だからこそ、本当に楽しいと思えることは、完全に自分のペースとセレクトで楽しむべきだと私は思うんだ。周囲の人に多大な迷惑を掛けない範囲であれば、人の都合を忖度する必要なし。気をつけるべきことは自分の都合と体調だけ。こんな開放的な楽しみ方があっていいし、あるべきだと思う。

 

ひとりでいることを「非リア」「ボッチ」、古くは「根クラ(根が暗い、つまり性格が暗くて楽しくなさそう)」と呼んでいるようだ。でも果たしてそうだろうか。この世の中の楽しいことは、多くの「友人」と共にいないとやってこないものだろうか?

 

私の答えは「否」だ。ひとりでなければ味わえない楽しさ。この世にはそういうジャンルの楽しさが沢山ある。

 

勿論、他人との交流が大好きな人をdisる気なんて毛頭ない。私自身も、他の人と楽しいひと時を過ごすのは大好きだから。でも、ひとりで何かをやっていることは全く恥ずかしいことではなく、むしろ人生の楽しみを広げることにつながる。そんな風に私は思っている。

 

このブログは、そういう人間が日々どんなことをし、どんなことを考えているのかを徒然に書き散らかす、そういう場として使いたいなと思っています。

 

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