●心の中の森を行く●

生きた証を残したい。私が言葉を忘れる前に

ツイ廃からの脱出

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私のツイッターアカウント (imeyun_kana)は、亡くなった娘が作ったアカウントだ。

病気がちだったあの子は、このアカウントに執着が強く、「もし私になにかあった時は、このアカウントを消さず、ここからこの人の応援を続けてほしい」と言われていた。

この人というのは、お笑い活動を通じて沖縄独自の言葉を残そうとしている「じゅん選手」という沖縄の青年お笑い芸人のことだ。

 

残念なことに「なにかあった時」が来てしまった。

「応援を続けてくれ」という義務を果たさねばならない。

そして、ツイッターに何かを書くことで娘と対話ができる気もして、ずーっと色んなことをツイっていた。応援もした。フォロワーさんもそのままにして。

 

そのうち、本当の私が書きたいことと、フォロワーさんの興味の方向がずれてるのが苦痛になってきた。フォロワーさんは沖縄のとある人気ラジオ番組が大好きな人達。一方の私は、じゅん選手のコーナーが終わった後は、その番組を聞かなくなってしまった。だから話が合わない。

「自分はここで何をすればいいんだろう」と悩む日が続き、何度も休眠アカウントにしようと思っていた。

それでも、このアカウントでツイートを止めることは許されない気がして、結局また、「フォロワーさんはこんな話を望んでないわなあ・・」と思いつつツイートを続けていた。

 

やがて「いいね」がつくことが快感になっていった。自分を認めてもらえている気がして。逆に「いいね」がつかないツイートは、フォロワーの意に添わなかった、あるいは私自身に魅力がないからだ、とネガティブに受け取るようになっていった。

ツイッターが、私や娘の人格に対する通知表のように感じられる。ツイッター依存状態になっている。頭では理解できていた。でも、冷静さを失っていく心を抑えることができない。

 

SNSは半匿名の場。顔も本名も知らないけど、アカウント名で個人を特定できるので、仲良しになる人、疎遠になる人が分かる。私がフォロワーさんと話をしている間に割り込んできて話をさらっていく。

 

勝手に私のことを「弟子」と呼ぶようなおかしな人まででてきた。確かにその人から教えてもらうことも多かったが、逆に私がその人の息子に勉強を教えてきた経緯もある。

私としては、教える教えられるの関係において対等だと感じていたが、相手はどうやらそうではないようだった。

 

完全匿名の旧2ちゃんねるなら、「名無しさん」のままやりとりしてれば、ID番号が一応ついてはいるけど、1日経てばIDは変わり、別人格として投稿ができる。

アカウント名(コテハンと呼ばれていた)を名乗ることや、特定の人と延々やりとりをすること(馴れ合い)には、厳しい目を向けられた。

DM機能もないから、裏で口裏を合わせて「〜さんはブロックな」という画策もできない。そもそも日付が変われば誰が誰だかわからなくなるんだから、変な共同戦線を張りようがない。そういう意味では健全で風通しの良い場所だった。

それに、誰が誰に話しているのか分からんから、「こんなことをツイートしたらあの人が気を悪くする」といったウザい忖度などいらない。

 

旧2ちゃんがネットの主戦場だった私にとって、ツイッターというのは日常生活の延長みたいで窮屈だった。フォロワーさん達の空気を読んで、言いたいことを言えないネット空間に何の意味があるんだろう。そういうのはリアルの世界で十分じゃないか。

 

ツイッターをやっていたことで知り合いになり、何度かリアルでお世話になった人達もいる。それはとてもありがたかった。

けれどそういう人たちだって、自分の興味と関係がないツイートをし続けている人間とは、段々距離をあけていくものだ。リアルと同じだ。

「話が合うかな」と興味を持って近づいても、「あ、違うわ」と去っていく。完全匿名ならそんな悲しさを感じずに済む。でもツイッターは違う。誰が近づいてきて誰が離れていったのかがよくわかる。

 

ネット上の仏壇としてここまで続けてきたけれど、人が離れていくたびに「私に魅力がないんだ」ってことを突き付けられるようでいたたまれない。

にもかかわらず、ここまでずるずるツイッターを続けてきたのは、遺言のせいでもあり、私自身がツイ廃になっていたせいでもある。

タバコや酒や麻薬と同じだ。私は完全に依存症になっていた。何か決定的なことがない限り、依存を断ち切るのは難しいな参ったな・・

 

そんなことを考えていた矢先に決定的なことが起こった。

今さかんにテレビなどで取り上げられているように、私が住んでいる県は台風で甚大な被害を受けている。おそらく日本中の誰もが知っている。

でも「大丈夫でしたか?」と声を掛けてくれた人はほぼ皆無と言ってよかった。

 

こんなコミュニティに気を使って話題を選び、「いいね」に喜び、マウントとられてイヤな思いをしてたのか。

さーっと気持ちが離れた。アホらしいにも程がある。

 

災害見舞のツイートがほぼなかったことで、私も流石に目が覚めた。軽いやり取りをしたり、ツイッターのお陰でリアルでも会えた人たちもいるけれど、もうあそこは私の居場所じゃない。

 

SNS疲れにも色々種類があるのかも知れんけど、「いいね」がつかないとか疎外感に苦しんでる人がいたら、私はこう言いたい。

SNS上のあなたは、あなたのほんの一部分にすぎない。「いいね」の数は通知表じゃない。SNSだけがあなたの世界の全てじゃない。

どうしてもツイートの禁断症状が出るなら、鍵アカ作ってひとりでつぶやいて、段々症状を和らげていくこともできる。リアルの世界で何か楽しいことをしてもいい。その方がよほどタメになる。

 

もしネット上に何か書きたいなら、ブログを書いてみてはどうだろう。ツイートは時間と共にTLを流れていくから、いくらしっかりしたことを書いても蓄積されていかない。

 

本を読んだり他の何かに時間を割くことでブログのネタになる経験ができる。書く内容に深みが出てくるはずだ。馴れ合いのお友達はできなくても、内容がしっかりしていれば、いつか誰かの役に立つかもしれない。書いてる内容がどーでもいいことだったら誰からも相手にされまい。

 

リアルの友人・知り合いがいてなかなか止められないって人は、「スマホの機種変した時に、パスワードとか忘れて入れなくなった」とか「最近忙しい」とか、とにかく言い逃れはいくらでもできる。

でも、諸般の事情で、自分もツイッターで何かを発信しないといけない人は、仕事だと割り切ってしまってはどうだろう。

発信し続けてるのに誰にも絡まないでいると、「最近私のツイート見てないの?まさかフォロー外してる?」と文句を言ってくる人がいるかもしれない(私にはいた)。そしたら、てきとーに「どうでもいいね」を時々押してやればいい。

 

あなたの価値はSNSごときで測れない。どこの誰だか知らない興味の方向が違う人に、あなたのことなど分かりはしないのは当然だよ。

 

自戒を込めて。リアルを大事にしようね。

だって本当にどうでもいいんだから。

 

顔が見えない相手だからと、丁寧に下手(したて)に出過ぎてたのかもしれない。場の雰囲気に遠慮し過ぎてる姿が良くなかったのかもしれない。

 

文章と文章で理詰めのやり取りをするのが好きな私には、正直言って、仲良しさんを演じないといけない場所は辛い。