後回しにしてはいけないこと
大事なことは絶対後回しにしてはいけない。
夫の母が90歳の誕生日を迎えた日のことだ。誕生日当日になって「仕事の納期が間に合わないから今日は帰省しない」と夫が突然言い出した。
「仕事が終わってから帰省する」
「仕事のキリは私には分からん。でもどうしてもどうしても帰れないほど仕事が大変なら、せめて花でも送りなよ」
「そういう形式的なことは・・どうせすぐに帰省するんだし」
「あかん。今日じゃないとあかん。義姉さんに電話して花を買ってもらって病室に届けてもらわないと!」
夫の背中を押して電話を掛けさせ、無事に花が病室に届いたそうだ。
あかんねん。後回しにしてええこととあかんことがあるねん。
そうやって帰省を数週間延ばしていたとある日の夜に、義理の姉から
「おかあちゃんが亡くなった」
という電話が掛かってきた。
「僕、最近おかあちゃんに会いに行ったの、いつやったっけ。正月はこっちにおったよな、12月に会いに行ったから、次は1月くらいでええわって。・・1月から今までに、ひょっとして1度も帰ってない気がする」
確かにそうだ。私の手帳にも記録がない。この半年間、夫は母親のところに顔を出していない。ずーっと仕事に追われていたのは事実だけれど、半年は長いな。
もうちょっとあとで。
次の機会に。
これが通用せえへん瞬間がやってくる。
私もそうだった。
父の時は、死ぬ前日に病院に行った。次の日が仕事だったので、病室を出て駅に向かった。ところが、いつもと違い、電車の中で涙が止まらない。こんなことは今まで一度もなかった。
「このまま帰ってしまっていいんだろうか。仕事を休んでもう一日こっちにいた方がいいんじゃなかろうか」
衰弱しきった父の様子を思い出し、このまま電車を降りて病院に戻ろうかと自問自答し続けながらも、駅の雑踏に押し流されるようにして私は新幹線に乗ってしまった。
次の日の夜だ。仕事が終わった後、部屋から空を眺めていたら、唐突にナスビの煮物が夜空に浮かんだ。父の大好物だった。
「なんでいきなりナスビなんやろ?」といぶかしみながら着替えている最中に弟から電話が掛かってきた。
「お父さん、あかんかった」
訃報だった。
父が亡くなったあと、母の近くに住んでいた弟が毎日家に顔を出して様子をみて、雑用を片付けてくれていた。時々私も帰省し、毎日電話で声を聞かせていた。母は脳出血の後遺症で話をすることが困難だったので、私がしゃべってるだけのことが多かったけれど。
ある日電話を切ってから、言い忘れていたことが一つあるのに気がついた。
まあ明日も電話するし、その時でええか、もうお母さんは寝る時間や。
明日が来るのを当然だと思っていた。
私には明日がやってきた。
でも母には明日がやってこなかった。
伝えたかった言葉が宙に浮いたまま、後悔の気持ちをぶつける先がない私は自分を責めた。
次があると思っちゃいけないことがある。
「明日できることを今日するな」的な格言っぽい言い回しがある。でもそれ、本当に明日に回しても後悔がないことなのか、よくよく考えないといけないよ。
病人相手の時だけじゃない。あなたや私自身にだって、当たり前のように明日が来るとは限らないんだから。
遺影の中でしか笑うことができなくなった義母をみて、生きているうちにもう一度・・という気持ちを消し去ることができなかった。
夫とそっくりな義母は、花が一杯飾られた棺桶の中でただ静かに目をつぶっていた。
どんなことでもそうなんだろうけど、誰相手でもそうなんだろうけど。
病人や高齢者相手のなにかをあとまわしにすることで、「取り返しのつかない後悔」という重たい石の下敷きになる可能性がある。
これで3度目だ。
義母は、きれいに晴れた空に向かって旅立っていった。
メインブログはWordpressにすることにしました
読んで下さる方、ありがとうございます。お久しぶりです。
これまでずっと、「はてな」に残るかWordpressでサイトを作るか悩んできました。
「はてな」には、新参者のブログでも見つけてもらいやすい仕組みがあります。これはとてもありがたい機能で、10記事程度しか書いていない私のブログを読んで下さる方とのご縁ができました。とてもありがたいことです。お礼申し上げます。
その一方で、Wordpressの有料テーマを買い、自分のサイトを少しずつ作り続けてもきました。夫の会社のHPとブログを作れるようになるための練習のつもりで。
そのサイトのカスタマイズが最低限終わり、文章をupできるところまでたどり着きました。
私は文を書くことは好きなんですが、ある程度まとまった文章に仕上げるには器用さと時間が足りません。
そこで、機能がたくさんあるWordpressの方をメインブログにし、こちらは気が向いた時に散文を書く、という感じにしてみようかと思っています。
Wordpressにも「はてな」同様に読者登録機能をつけ、更新メールが届くようになっています。スターマークの代わりに「いいね」ボタンもつけてみました。
もし今後も私が書いたものを読んでやってもいいぞ、と思って下さった方がいたら、こちらにお越し下さるとうれしいです。
家族4人とも脳血管奇形を持ち、人とは少し違う人生を歩んできた私の半世紀を、Wordpressでも書き続けていこうと思います。
50代は人生の分岐点です。過去を振り返り、将来にそなえ、今を精いっぱい楽しむ世代だと思っています。だからこそ、きちんとした文章を残していきたいです。
Wordpressの方は、よりしっかり書かないと人の目に止まらないので、ここで書いていたよりも文章のレベルを上げられるよう、頑張りたいと思っています。
新しい記事もいくつかあげ始めました。
●「利き手が動かない父のために うちのプリンはどんぶりで作っていた」
●【ひとり旅歴35年】女性海外ひとり旅のトラブルを減らす10のポイント①
●【ひとり旅歴35年】女性海外ひとり旅のトラブルを減らす10のポイント②
ここで書いた文章も、大幅にリライトして移動させようと思っています。
新しいサイトでもお会いできますよう祈りながら、これからも文章を紡ぎ続けていくつもりです。
ここにもつぶやきに来ます!これまでとはちょっと違って、ツイッターの長い版みたいな気楽な散文になると思います。
不定期更新ですが、またこれからも、どーぞよろしくです!
ダイエットに失敗する人は自己評価が低い
この1年半で私は45キロ軽くなった。
これまで何度も何度もダイエットを試みてはきた。何とか10キロ痩せたというのに、いつも何かのはずみで気持ちが緩み、また体重は元に戻っていく。基礎代謝が高い若い時でさえそうだった。
人生の一時期を除けば、私はとにかく縦にも横にも大きな娘。母子手帳の身体測定欄には「特大」と書かれていた。「普通」という範疇にいたのは生まれた瞬間だけだった。そして私はこの半世紀を無駄な脂肪と共に生きてきた。
こんなヤツがなぜ今回はごっそりと体重を落とせたのだろう。
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高いダイエット食品などに手を染めたわけでもない。苦しんだ記憶もない。私は遺伝性の脳血管奇形のため、ごく軽いとはいえ右半身にマヒがある。力が入りにくいので、負荷のかかる運動はしたくてもできない。
そして、複雑な料理の手順を考えると脳が混乱するので、これまで作ってきた料理を作り続けていただけ。特別なことはこれといってしていない。
元気だった頃はジョギングもしたのに。若くて代謝も高かったのに。どうして途中でリバウンドしてしまったんだろう。
はっ!と気がついた。
やせなかった理由。それは、自己評価が低かったからだ。
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人は自分が好きなものは大切に扱うものだ。お気に入りのものを粗末に扱われたり壊されたりしたら、誰だって怒る。当然だ。
太りすぎると身体を壊す。寿命も短くなるだろう。そんなことはみんなよく知っている。なのに、一番壊してはいけない自分の身体を壊している人ってのは、心の奥では自分のことを嫌っているんだよ。
自分は大切にする / される 価値などない。だから内臓が壊れようが軟骨がすり減ろうが見た目が醜かろうが、目の前の欲望に負けて食べ物をむさぼり続けるのではなかろうか。
今回のダイエットが成功した理由は、このことに気がついたからだ。
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生まれてこのかた半世紀。人生のほとんどを巨デブとして生きてきた私が自信を持って言う。
ダイエットの成功はノウハウで決まるのではない。
掛けたおカネの多寡で決まるものでもない。
恋などしてなくても人はきれいになれるんだよ、本当の意味で自分のことを大切にしているのなら。
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私がどんなダイエットをしたのかを書きました。ダイエットに関しては、これからも何本か記事を書く予定です。
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書き上がったものを、いつもと同じようにリンクで残しておきます。
いつも読んでくださってる方、本当にありがとうございます!
【弔辞】障害者家庭で育った娘に進学への道を拓いて下さった先生へ
障害者を両親に持つ女子高生にとって、大学への進学にはとても大きな壁が立ちはだかっていました。
一番の壁は親戚の大反対。その理由は3つ。
①普通の家庭でも、女の子は高卒もしくは短大に進学する。せいぜいお嬢様女子大。四年制の国立大学に進学するなんて非常識だ
②高校卒業後は親の介護をするのが常識だろう。大学に通うようになったら、その間だれが親の介護をするんだ。まさか私達親戚の手を借りようだなんて思ってないわよね?
③なけなしの貯金は、身体が弱くてあまり勉強が得意ではない弟の進学費用に充てたい。
それらの高い高い壁をぶち抜き、両親が重度身体障害者になってしまった家庭の娘に、大学進学への道を拓いて下さった高校の先生。私は四年制大学に進学できたことで人生が変わりました。普通の生活ができるようになったのは進学のおかげ。
こんな方がおいでになったことを文章に残したくて一気に書きました。
このブログで私は、自分の人生を通り過ぎていった出来事を時系列に沿って書いてきました。
本当なら、大学受験時のエピソードも先生のことも、もう少し先に書こうと思っていたんです。けれど先生の訃報に接し、遠くからお線香代わりに一気に今書こう。先生のことをメインに記事を書こう。そう思いました。
35年から40年も前のことです。障害者家庭に対する風当たりは、今とは比較にならない程の逆風でした。近所の人達はもとより、親戚でさえ離れていった。だからこそなおさら、この先生の存在は空から差し込む一筋の美しい光だったんです。
できれば少しでも多くの方の目に留まることを祈りつつ、この記事を送信します。
ねこが逝った。おまえを拾った公園の花と共に<2>
前回の記事を書いてからもう随分経った。
誰も通らない草むらから転げ落ちてきた子猫は、長寿猫の表彰を受けて程なくして亡くなった。今はその賞状を背にして、骨壷の中で静かに座っている。抱き上げると、ひんやりとした陶器の壁に当たって無機質でかそけき音がする。
そうだよな。お前はもう骨しか残ってないんだもんな。
そんな事実を突きつけられ、その都度に小さな骨壷をそっと元の場所に戻す毎日を送っていた。そして、骨壷の前に飾っている花が枯れるたびに、私はあの草むらに通った。季節はちょうど5月。沢山の草や花が芽吹き、美しい茂みを作っている。「抜かせてくれな、ごめんな、大切に飾らせてくれな」とつぶやいて、名も知らぬ雑草の花を少し抜いて持ち帰った。
こんな1カ月の間に、動植物育成系アプリが私のスマホの中へ次々とダウンロードされていった。つるつるした画面の中の猫、鳥、カメ。エサをあげるとすぐ食べる。首を支えてやらずとも、シリンジを突っ込んだりせずとも、みんなすぐにエサを食べてくれる。悟られないように薬の混ざったエサを食べさせるにはどうしたらいいか。もうそんなことを一切考える必要はない。みんな毎日すくすくと元気に育っている。手の掛からないつるつるした命だ。
でもな。いくら立派に元気に育っていっても、これは機械だ。命ではない。
衝動的にアプリを閉じ、検索画面に「猫 譲渡 (住んでる都道府県名)」と入力して、私は唐突に検索をし始めた。いないか?お前とよく似た捨て猫はいないか?お前、どの子なら自分の代わりに可愛がってくれていいと思えるんだ?いるかこの画面の中に?
とあるサイトにたどり着いた。個人もしくは動物保護団体と、猫を飼いたいと思っている人をマッチングさせるサイトの一つだ。
猫がたくさん登録されている。みんな可愛い。ページを繰っていく。
ふと指が止まった。こいつか?なあミッキーよ。こいつか、お前が気に入った子猫は?
1カ月前に火葬車の扉を閉めた時、私たちはミッキーに話しかけていた。
早くもどってきなさい
どうしても戻れないなら「自分の代わりにこいつを可愛がれ」
そう思える子猫を教えなさい
猫の寿命は20年前後だ
飼うからには最期まで責任を持って飼いたい
私たちはもう若くない
だからなるべく早く教えなさい
お前の代わりにどの猫を可愛がって欲しいのか
教えなさい、かならず
お前はこの約束を果たしてくれたのか?このほわほわした毛のこの子か?この子でいいのか?もし違うなら、私をイヤ~な気分にさせてみてくれ。でももしこの子でいいのなら、逆に晴れやかな気持ちにさせてみて欲しい。
ネットで面会の申込をした。その子猫と会わせてもらえるまでの数日間、私の心はずっと晴れやかだった。そうか、この子でいいんだな?何度も聞くけど、いいんだな?
始めて手に乗せてもらったその小さな命は、キロ単位でなはく数百数十グラムと表現されるとっても軽くて温かい重さだった。精一杯鳴いているけれど、とてもか細い。
最初に出会った人の理解がなければ、とうの昔に窒息死させられていたであろう小さな命だと聞いた。私はその命のバトンを次に受け継ぐことになる。私にそのバトンを託した人は、これまでに何匹もの捨て猫の世話をし、飼い主を探し続けてきたという。たとえ短い時であったにせよ、世話をしてきた猫を飼い主に託す時はいつも、別れの辛さで胸が詰まるそうだ。
子猫への応募はとても多いんです
その人は言った。
でも、18年前に草むらで猫を拾い、これだけ長く猫と暮らしてきたあなたにこの命を託したい。そう思いました。どうぞこの子を幸せにしてやってください。
ほわほわの命がまた我が家にやってきた。
その後、病気で猫を飼えなくなった知人から猫を一匹託された。
そして今、この文章をパソコンに打ち込んでいる私の腕を枕にして、仲良くだらあああんと伸びている。
ここには少し前までおじいちゃん猫がいたんだよ。お前たちをここに呼び寄せたのはそのおじいちゃんだ。おじいちゃんに色々教えてもらいなさい。最後の最後まで本当にいい猫だった。見習いなさい。
そして長生きしなさい。
よくきたな。ありがとう。
ねこが逝った。おまえを拾った公園の花と共に<1>
移動火葬車の窯が開いた。
「ここはこいつと最初に出会った場所なんだ。だからここで見送ってやりたくて」
ぬいぐるみのように軽く、軽石のようにごつごつした身体を抱きしめながら、私は家族の話をじっと聞き続けていた。
ここは幹線道路からほど遠くない場所にあるさびれた公園。周囲にあるのは、限られた人しか足を運ばないような公共施設だけだ。人家はない。夜になると、頼りない光を放つ街灯が、誰も通らない寂しい道をぼんやりとともす。昼間でさえこの道を歩いている人はほとんどおらず、夜はほぼ全くの無人地帯と化す。ここはそんな悲しい場所。
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18年前のある日、家族はジョギング中に足を痛めてしまったそうだ。家にたどり着く一番の近道はここだ。暗くて気味悪いけど、とにかく早く家に帰りたい。必死に足を引きずりながら怯えて歩いていたその時、公園の草むらが突然がさがさっと音を立てた。まずい。まずい。なんでこんな時に限って捻挫してんだよこの足は!歩け、とにかく歩け。何が動いた?いや、そんなことはどうでもいい。誰か、誰か助けてくれえっ!!
切迫する心と走れない足。がさがさした音は同じスピードでついてくる。うわああああああああっ!!と叫びそうになった瞬間、がさがさの正体が道路に転げ落ちてきた。小さな耳が立っている。それは、やっと通った人間を追って必死に走ってきた子猫だった。
野良猫だったのか・・・。小さいな。大丈夫か?
そろそろと近づいてみたが逃げない。むしろ猫の方から近寄ってくる。しかも野良猫とは思えないきれいな身体で。
「多分、飼われてたのに突然捨てられたんだよ。猫風邪もひいてないし、身体に傷がなかったもん。毛並みもきれいだった。人間を怖がらなかったのも多分、ひとに飼われてたからじゃないかな。可哀想なことするよな。こんな場所、誰も通らないじゃん。猫を捨てる瞬間を誰にも見られる心配もない。角を曲がれば幹線道路。車で来た人にとってはここは便利な場所だと思う。でも猫にとってはどうだ?ほとんど人が通らない場所に突然置き去りにされて、これからどうやって生きていけっていうんだよ。酷いじゃないか」
恐怖心は一瞬にして憐憫の情に変わったという。まだ「にゃあ」と鳴くこともおぼつかない小さくて温かい生き物を手のひらに載せ、家族はよろよろと家にたどり着いたそうだ。
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いま私の腕の中で硬く冷たくなっているのは、あの時あのまま消えていたかもしれない、ミッキーという白キジ柄の猫。私達と分かち合ってきたのは18年という長い時間。人間に換算するともうすぐ90歳。そう遠くないころにお別れがくる覚悟はしていたけど、それが今日なのか。なんで今日なんだ。大往生なんていう言葉は使いたくない。どんな言葉で修飾しようとも、大事な命との別れの辛さが癒されることはない。
私たち家族のそばには、しんみりとした言葉で話してくれるペット専門の火葬業者の男性が立っている。私たちの決心がつくまで、空気のようにそっとそこによりそってくれている。
戻ってきなさい。早く戻ってきなさい。なるべく似た柄の猫になって戻ってきなさい。初めて会った子猫の時の姿になって戻ってきなさい。
でもどうしても戻ってこれないのなら。
自分の代わりにこの猫を可愛がってくれ、とお前が思える猫を見つけて欲しい。早く見つけて欲しい。そして、どこに行けばその子と会えるのか教えなさい。お前の言葉はひとには分からない。だから神様か仏様に頼みなさい、翻訳してくださいと。翻訳して飼い主の心に届けてくださいと頼みなさい。お前の気持ちが届くまで、私たちはずっと静かに待ってるから。
骨格標本みたいになってしまったその身体を、長年使い続けた赤い毛布から、ひんやり冷たそうな白い板の上に委ねるまで、私はずっとずっと心の中でミッキーを諭していた。
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元気だった頃のぽってりした重みとふわふわと柔らかかった身体。私の手はあの感触をまだはっきりと覚えている。
あのころは。
あのころは。
あのころは。
たくさんの「あのころ」が心の中でこだまのように響く。この響きにゆったりと心を委ねることが、おそらくミッキーへの供養になる。だから、私が覚えている全てのミッキーと、今は心の中で思いっきり遊んでいよう。
泣いた。
おいおいと泣いた。
独り旅バックパッカー歴30年超の女が語る【貧乏旅行の宿事情】
スマホがない。デジカメない。スマホは当然あるわけない。ネットもない。コンビニない。LINEって何だよ線のこと?・・・私が独り旅を始めた1985年の日本はこんな感じだった。
出来事で振り返ってみるならば、日本航空機が御巣鷹の尾根に墜落して世界最大の航空事故を起こした年。阪神タイガースが優勝して、喜び狂ったファンの手によってカーネルサンダースが道頓堀川に強制ダイブさせられた年。電電公社はNTTに、専売公社は日本たばこ産業(JT)へと名を改めて民営化。青森と函館を結んでいた連絡船に取って代わることになる青函トンネルが貫通した(営業運行はまだ先になる)。夏目雅子さんが亡くなり、「八時だョ!全員集合」という大人気お笑い番組が終わり、久米宏の「ニュースステーション」が始まり、羽生善治が中学生プロ棋士になり、秋元康プロデュースの「おニャン子クラブ」というグループが出演する「夕やけニャンニャン」が人気を集めた時代だ。読んでくださってる方々はこの中のいくつをご存知なんだろう。とにかくもう過ぎ去ってから長い年月が経ってる事柄ばかりだ。
この30有余年の間に新しいモノやサービスが生まれたその影で、ひっそりと姿を消したり変えたりしたものがたくさんある。日常生活の中だけでなく旅に関係する分野でも同じことが言える。
私はこれから1985年から始めた旅の記録を書き残そうと思ってるんだけど、今はもうないモノやサービスについて言及しないといけない場面がたくさん出てくることだろう。物価はほとんど変わっていないんだけど、生活に必要とされる物品やサービスの変化は本当に大きい。具体的なことは、今後の記事でちょくちょく触れるとして、今回の記事では「ユースホステル」を切り口として、当時の貧乏バックパッカー旅行の宿泊事情についてあれこれを書いてみたいと思う。
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本題に入る前に、国際通貨基金(IMF)の統計データに基づいて作られたグラフを使って、この40年間の日本の物価水準について書いておこう。今後の旅行記録の中にも、モノやサービスの値段について書くことがあるだろうから。
よく「当時の100円は現在の価値で言うと100万円に相当する」といった言い回しを耳にすることと思う。確かに物価や貨幣価値は時代とともに変化してきたけれど、それには但し書きがつく。1970年代まではそうだった。
1985年を基準にして以下のグラフから数字を拾うなら、当時100円で買えたものは今でも大体100円で買えるということだ。1980年代以降の記憶しかない人にとっては、モノの値段があまり変わらないことや、むしろ安くなっていくことにさほど違和感を感じてないかもしれない。でもそれは日本国内だけの話であって、以下のように主要国の物価変動率はこんなに大きいんだ。
https://toukeidata.com/country/bukka_suii_hikaku.html
私の肌感覚で言うならば、100均で買えそうな系統の商品は、昔と比べて随分安く手に入るようになったと思う。ただしそれは、同じ質のものが安く買えるようになったという意味ではない。おおよその傾向として、商品の質を落として価格を抑えていることが多い、ということだ。昔と同じようなしっかりした品質のものを買いたいのなら、やはり昔と同じくらいのお金を払わないといけない(あくまでも私の肌感覚においてだけれど)。
旅行に関して書くならば、旅費を抑えるのに役立つサービスが登場したことによって、いわゆる貧乏旅行に掛かる旅費はかなり圧縮できるようになったと感じる。
具体的にはLCCの就航と時折打ってくるっ破格のバーゲンセール。これは長距離高速バスについても同様だ。そして、交通・宿泊予約における早割サービスも浸透した。さらには、女性でも安心して利用できるカプセルホテルも珍しくない昨今だ。いまやカプセルホテルは、終電に間に合わなかった酔っ払いや、宿泊費を抑えたい出張族専用の宿泊施設ではなくなった。
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さて、やっと本題だ。これを読んでくださってる若い方は、ユースホステルというのを知ってらっしゃるだろうか。
どう説明すればいいんだろう。詳しくて正確な情報はwikipediaなどを見ればわかることだから、ここではざっくりと書いてみる。若者に安価かつ気軽に旅してもらおうという趣旨で作られた世界的な組織があり、そこが運営しているのが「ユースホステル(YH)」という宿だ。手元に残っている当時の資料を読み返すと、安いYHだと2000円でもおつりがもらえた。素泊まり千円台後半ってことだ。素泊まりのところも多いが、朝食夕食を提供するところもある。それでも当時は4000円でおつりがくる、貧乏バックパッカーにとってとてもありがたい宿だった。自分で布団シーツを持ってくと、宿泊代金から100円程度の割引があった。
会員制で、日本全国のみならず世界各地に同様の宿が多数存在する。今は安いビジネスホテルや小奇麗なカプセルホテルなどに押されて、YHはどんどん廃業に追い込まれている。中には、宿泊施設としてまだ営業を続けてるけどYHと名乗ることはやめた、というところもある。YHというチェーン店的なシステムに乗っかって営業するメリットがないんだろうな。
YHに宿泊すると、会員証についている用紙にその宿オリジナルスタンプかシールを貼ってもらえる仕組みで、スタンプフェチな私にはそれも楽しみの一つだった。スタンプやシールを押したり貼ったりしてくれたYHのほとんどは、廃業してしまって今はもうない。その当時の会員証は家にまだあるんだけど、夫の大量の本の山に阻まれてすぐに取り出すことができないんだ。出てきたらここに画像を貼ってみようと思ってる。こんなに本を買ってどうする気だよ。何百年生きるつもりでいるんだよまったく。
次は宿のスペックとサービスについて。これまで私が泊まってきたところは、二段ベッドが複数並んでいる相部屋が多かった。今でいうドミトリーだ。ところが驚くべきことに、私が宿泊した範囲では、私物を預けるコインロッカーが存在しなかった。当時はパソコン・スマホ・デジカメなどの電子機器がなかったため、外出時に宿に置いておく荷物の中に残るのは着替えや洗面道具や常備薬くらい。盗んでもあまり金銭的価値がない。だからロッカーに入れてなくても何とかなってたんだろうな。
朝食夕食を提供しているYHでは、決まった時間に食堂に行って、知らない人達と一緒に食事をする。宿にもよるけど、食べ始める時間は宿泊者全員同じ。その時間に間に合わないときは、あらかじめ電話をしてけば、自分の分の食事を残しておいてくれる宿もあった。食事の後はみんなで食器を洗う。流れ作業だ。
それが終わったら「ミーティング」の時間。ミーティングといっても、何かを話し合うために集まる訳ではない。運営者(ペアレント)や運営の手伝いをしている人(ヘルパー)と一緒にわいわい話をしたり、誰かがギターを弾いてみんなで歌を歌ったりすることをそう呼んでいた。YHによっては、狂ったように踊り続ける時間でもあった。今も残っている北海道の桃岩荘YHのそれはとても有名だった。当時はYH内での飲酒は不可。つまりそのYHでは、知らない人ばかりが集まってシラフで踊り狂ってたわけだ。今思えばあり得ない。意味不。しかも消灯は10時。どんだけ健全なんだよ。
連泊者対象に、ヘルパーがガイドツアーを行ったりスキー教室を開いたりもしていた。ヘルパーってのは住み込みのバイトみたいなもんだ。その宿の従業員ではない。旅好きな若者がその宿を気に入って居ついている、そんな感じ。だからベースとしては旅人。これは本人に確かめたわけではないので定かじゃないけど、彼らのがスキーのインストラクター資格を持っていたかは怪しいところだ。そういうのって珍しくないんだろうか。なんかあったときの傷害保険も掛けてないんじゃいかと想像する。
とりあえず素人のボランティアという感じだった。後述すると思うけど、北海道の某YHのスキー教室で、転倒したまま起き上がれずに助けを呼んでいるというのに、ヘルパーの男性たちは、他の綺麗な女子大生たちに夢中で、参加者が一人足りないことに全く気づいていなかった。パウダースノーの大平原に置き去りにされた私は危うく死ぬところだったというのに、そのお詫びの品はヘルパーが自腹で買ってきたYHお手製のショートケーキ1つだけ。ヘラヘラと「さっきはごめんねえ(笑)」とかヌカしてやがる。その後私がどうしたかは、北海道旅行の話が書けるところまで旅行記が進んだら書いてみようと思ってる。
・・・ナメやがって。ひとの命を何だと思ってるんだ(怒w)